船橋洋一『あえて英語公用語論』(文春新書 2000)を読む。
タイトルは過激で、「日本語に替わって英語を話せと言うのか」と即批判の来そうなタイトルであるが、中身は言語と国家や政治、教育のあり方を他国の例を交えながら丁寧に論じている良書である。英語うんぬんを抜きにしても読む価値がある。
著者は日本人の英語能力の低さが、結果として日本の世界からの孤立を招きかねないと警鐘を鳴らす。
「言語的孤立」の恐ろしさは、それがえてして国民の間に「言語的孤立感」から来る被害者意識と犠牲者意識をもたらし、排外主義を噴き出させかねないことにある。日本はあまりにも特殊だから無理だ、どっちみち日本は理解してもらえない、何を言ってもダメだ、という無力感を疎外感を生み出しかねない危険である。
言語とりわけ公用語というのは、カナダやフランスなど多くの国で、少数民族の分離独立の引き金となったり、また植民地支配の帝国主義の道具して用いられたりしてきた歴史がある。イギリスのインド統治の際の言語政策は「われわれと何百万というわれわれが統治する人々との間の通訳する階級=血と皮膚はインド人であるが、趣味、意見、価値観、知性は英国人である人々からなる階級=をつくることをねらいとする」ものだったそうだ。また、他民族国家のアメリカでも「他言語、他文化状況は、米国の国家と社会を分断させる恐れが強い」と1983年には「英語第一(English First)」なる団体も創設されてる。
船橋氏は、言語というものは「一方がうまくなると片方が下手になる、英語はできるようになるが、日本語がだめになる、というゼロ・サム関係ではない」のであり、二つの言語を並行して学ぶことで、物事の意味を分析しようとするようになる。また、日本語を英語に言い直したり、また英語でもって日本文化を捉え直すことで、思考の振り幅を広げることができると述べる。さらに、今後は日本も他民族主義・他言語主義にならざるを得ず、日本の国家像は「多元的、かつ多様で、開かれたアイデンティティ」が望ましいと主張する。非英語圏の人も共通語として使うようになった「英語たち」を第二の公用語として明確に位置づけることで、逆に第一公用語の日本語を守り、またいたずらな米国追随にならない日本外交を保障する道筋にもなるとまとめる。
一方的な立場から他方を否定するような物言いをすることなく、丁寧に論理を積み上げていく文章力には脱帽である。是非他の著書も読んでみたいものだ。