今日の夜「爆笑問題&日本国民のセンセイ教えて下さい!」というテレビ番組を見た。
爆笑問題の二人が司会を務め、教師や医者、政治家と呼ばれるセンセイたちをゲストに教育、医療、政治の問題をぶつけるというバラエティー番組である。その内の教育に関する討論のやりとりを見ていたのだが、ゆとり教育、学力低下、教員の不祥事などうんざりするようなテーマばかりであった。
それにしても少子化が叫ばれる現在でも、教育問題は相変わらずホットなテーマのようである。先日終了した「ごくせん」や「3年B組金八先生」など学校に関するドラマも大人気である。しかし、教育問題というのは、誰しもが10年以上体験していることなので、どうしても個人的な経験や思いが先走ってしまうものである。「私の頃の先生は○○だった」「昔も今も子どもというのは○○なものである」といったように、主観的な思考法からなかなか抜けられない。
テレビを見ていて思ったのだが、学力低下やゆとり教育など現代的なテーマであろうと、議論の行き着く先は開発主義教育か注入主義教育かという尽きせぬ教育哲学の論争になっている。開発主義とはソクラテスの産婆術や孟子の性善説に代表されるように人間には生まれつき善なるものがあり、それを伸ばすのが教育だとする考え方である。ルソーの「子どもの発見」やペスタロッチの「合自然主義」、またフレーベルの幼稚園教育や、モンテッソリーの集中教育につながっていく児童中心主義である。注入主義とはプラトンや荀子の性悪説に代表されるように、子どもにその社会や国家にとって善なるものを教え込み、子どもを社会の一員に育て上げようとする考え方である。ロックの精神白紙説やヘルバルトの段階教授法などに受け継がれていく教師中心主義である。日本でも世界でも教育政策は大きくこの2つの考え方の間を揺れ動いていると考えてよい。
ここ10年ほど、文部科学省の役人は総合制高校や総合的な学習の時間の創設、学習指導要領の柔軟な解釈など開発主義的教育に裏付けされた教育行政を展開してきた。しかしそうしたゆとり教育や問題解決学習自体が学力低下や生活の荒れを生んでいるとの”誤解”を受けている。最近は自民党右派の文部科学大臣の就任や、都道府県や市町村の教育委員会の反動化により、文科省の政策は「修正」を強いられている。総合的な学習の時間や司書教諭の必置もなかなか都道府県レベルに浸透しないままぽしゃってしまいそうな情勢である。また2003年に打ち出された特別支援教育の理念も、地方公共団体の逼迫した財政により具現化に向けたテンポは遅い。