樋口裕一『読むだけ小論文 応用編』(学研 2001)を読む。
小論文といえども、全くのオリジナルな発想が求められているわけではなく、ある程度の展開の型が出来れば、後は構造的な知識で小論文が書けるようになると著者は述べる。本書では、民主主義や、消費社会、言語・文化、メディアなど小論文頻出テーマについて、チャート式に分かり易く解説がなされている。樋口氏の述べる「1:4:4:1」の起承転結型の小論文のスタイルは堅苦しくて好きではないが、これ以上のないくらい簡潔に現代日本人、日本社会が抱える問題が解説されており、楽しく読むことが出来た。
国公立大学で狙われるようなテーマはほとんど網羅されているので、受験生にオススメしたい。
月別アーカイブ: 2005年2月
『元祖!ラーメン本』
博学こだわり倶楽部『元祖!ラーメン本:ラーメンのことなら何でもわかる』(河出書房新社 1997)を読む。
ラーメンに関する本や雑誌の記事を寄せ集めた暇つぶし的な雑学の本である。
本で述べられていた豆知識を一つ紹介したい。インスタントのカップヤキソバの作り方であるが、麺の上に乾燥キャベツなどのかやくをのせてお湯を注ぐとかやくが容器のサイドにくっついてしまう。そこで麺の下にかやくを置いておくと程よく麺とかやくが絡むということだ。
本日の東京新聞の夕刊
本日の東京新聞の夕刊に一橋大学教授の鵜飼哲氏の談話が載っていた。
東大の駒場寮や法政の学生会館など学生が自主的に自己形成してきた場ががなくなっていることについて、「迷惑はいけない、安全という名目で自由な空間や時間を奪い、人間を窒息させる自殺行為」だと断じる。そして2005年における抵抗の条件について以下のように述べる。
明確な批判なり、欠点を指摘することも大切だが、まずは「ちょっと待てよ」と踏みとどまることが抵抗の第一歩だと鵜飼氏は述べるのだ。「上意下達」に物事を鵜呑みにし、「大人のふり」をして、何ごとも分かったような顔をするのは止めろということだ。
今の危機は何か、踏みとどまって考えること。抵抗の第一歩は踏みとどまることです。何も言わなければ抵抗にならないという考えはありますが、僕は多様であっていいと思う。無党派、引きこもり、年間三万人という自殺者…いずれも抵抗の一つでしょう。自殺は、十年で三十万人近くが死んだ、自分に対する内戦だったと考えるべきです。
新たに学ぶというよりある種、学んでしまったことを捨てること。体や心をズラして、ゆったり構えて持続することが一番大事かもしれない。中国文学者の竹内好は、日本の“一木一草に天皇制がある”と書いた。息の長い文化闘争が必要なんだと思います。まずは日本人を拘束してきた“迷惑”という言葉の使い方を考え直してはどうでしょう。
『日本のブラックホール』
櫻井よしこ『日本のブラックホール:特殊法人を潰せ』(新潮社 2001)を読む。
郵貯、簡保などの財投によって湯水のごとく国民のお金を無駄遣いする特殊法人の財務諸表を暴露しながら、特殊法人改革を訴える。
2001年度で言うと、国会で審議される一般会計が82.7兆円なのに対して、官僚が扱う特別会計の歳出は217兆円にもなる。さらに地方自治体の予算も足すと、ネットの歳出額は300兆円にもなるという。日本のGDPが510兆円なので、大雑把に言えば、日本全体のお金の歳出の60%は公的支出になるというのだ。もちろん、そうしたお金の全部が国民の生活と福祉を向上されているのに使われているのならばどこからも文句はでないであろう。しかし実態は日本道路公団や本州四国連絡橋公団、都市基盤整備公団、水資源開発公団、石油公団など数え上げたら切りがないほどの特殊法人が黒字の見込みの全くない赤字経営を続けている。特殊法人の整理については、政治の英断を期待するしかないのだろうか。
『豊かさとは何か』
暉峻淑子『豊かさとは何か』(岩波新書 1989)を読む。
何度も版を重ねている大ベストセラーである。旧西ドイツの社会保障政策との比較から、日本の社会保障の貧しさをこれでもかと指摘する。旧西ドイツの良い面しか強調していないという嫌いはあるが、バブル景気に浮かれる日本人の浅はかさは十二分に伝わってくる。
著者の暉峻さんは、自己責任、自助努力などのスローガンで福祉を切り捨てようとする当時の中曽根内閣の臨調路線に全面的な批判を加えている。市役所の福祉窓口で生活保護の申請を却下する者ほど有能と見られるといった現場の情況を分析することから、日本の貧困な福祉政策を追及する。現在の小泉政権を捉える上でも参考になるところが多い指摘である。そして、社会と個人の関係について下記のように述べる。
現在、私たちは、私有財産制度のうえに、完全に個人として生きていると思いがちである。だから、自己責任とか、自立自助、契約の自由等については、当然のこととしてあやしまず、また個人として生きるうえにとくに支障はない、と考えている。
しかし個人の自由が、じつは共同体的な土台によって支えられていることを、私たちは忘れてはならない。共同体的な土台を、自然環境にまでひろげて考えれば、その意味はいっそう明白になる。人間は、いつの時代にも、社会的な動物として生きており、個人として生きることは、同時に社会人として、共有の場に支えられて生きることでもあった。
暉峻さん自身、目指すべき明確な家族像なり社会像を提示することはしない。彼女の示唆する「豊かな社会」は極めてぼんやりとしたものである。労働そのものを否定せず、労働の価値を尊重した上で、地域と家族の幸福につながる労働のあり方を次のように提示する。
もし豊かに人生を生きる、という発想からすれば、「ゆたか」とは、ひとびとの共存、自然との共存をひろげていくような労働を意味する。エーリヒ・フロムは、それを、人間や未来に対する思いやりと連帯のための能動性だと言っている。
そう考えてくると、私たちは、労働時間の短縮、つまり自由時間の増大だけではなく、労働のありかたを変えていくことなしには、豊かな生活はありえない、という課題に到達する。つまり、生活の中の労働と、社会的な労働を統一する必要にかられる。
生活とも、地域社会とも切りはなされ、消費のたのしみしかなく、あるいは営利企業に組織されたレジャーのたのしみで、自分自身がふり回されている。そういう生きかたから、そろそろ私たちは脱却すべきではないのだろうか。
私たちは、本当は労働時間の短縮だけでなく、労働のなかにも豊かさを体験したいと望んでいるのではないだろうか。そしてその欲求は、社会全体の流れを変えることなしには、実現できないことを知っているゆえにこそ、まず手はじめに、労働時間の短縮をねがい、人間らしい生活をするゆとり、思考するゆとり、感じるゆとり、地域社会を作っていくゆとり、政治参加の時間を持つゆとり、を得ようとしているのだと思う。