月別アーカイブ: 2004年8月

『知的生活を楽しむ小論文作法』『入門・論文の書き方』

そろそろ仏教大学のレポートをまとめなければならないのだが、考えてみれば今までレポートのまとめ方についてしっかり推敲を重ねたことがなかったので、論文の書き方についての本を少し読んでみた。

鷲田小彌太『知的生活を楽しむ小論文作法』(三一新書 1992)を読み返す。著者は小論文とは特殊な知識や技術を必要としない、相手を理解させる筋道だった文章だと明確に定義づける。そして必要なものは高校の教科書にある「教養」であり、ヘーゲルのいうところの「理性的なものは現実的なものである。現実的なものは理性的である」教養を学ぶことに重点を置く。初心者には少し難しいストレートな小論文の指南書となっている。

書くために読むのは、精神の集中をうながす。ひどくよく読めるのである。漫然と読むことがないのである。よく読もうと思ったら、書くために読むのがいい。私が、小論文上達の最良の道は、読んだ本を解説したり書評をすることにある、と考えるのも同じ理由からである。しかし、小論文の色合いの微妙な違いは、テーマに直接関係の無い「教養」を、どれだけ身につけているかによって決まるのである。この違いは、微妙だが、如実に現れるのである。そして、「教養」のつけ具合は、どれだけ読んでいるかによって決まる、と言ってよい。もとより「読む」(read)とは、書物を読むことだけを意味しない。世界という書物を読むのである。しかし、書物を通して読まれた世界は、広大無辺なのである。尽きるところがないのである。探索の果てがない、と言うことだ。しかもいながらにして読めるのである。片手でつかめる程度の書物の中に、世界の知識や情報がパックされているのである。

同じ著者であるが、鷲田小彌太『入門・論文の書き方』(PHP新書 1999)を読む。PHPから出ているせいもあろうが、上記の著書と比べ、渡辺昇一を礼賛し、共産主義研究の著書は全て無駄なものになったという吐露したり、少々露悪な内容になっている。しかし読者の読むスピードも考慮しながら文章を明快なものにする工夫が大切だという意見は分かりやすい。先に見出しや目次を作って全体像を押さえながら、それぞれの項目の中心論点をキイワードやキイフレーズにまで絞り込んでいくことで、一項目に詰め込む内容をスリムにすることが出来る。大論文だろうと小論文だろうと、一つの論点に対しては原稿用紙5枚くらいが限度である。大きなテーマになればなるほど、論点を増やして一つ一つの論点をスリムにしていかないと独りよがりの文章になってしまうという指摘は耳が痛い。

『スポーツが世界をつなぐ』

荻村伊智朗『スポーツが世界をつなぐ:いま卓球が元気』(岩波ジュニア新書 1993)を読む。
著者は卓球という一球技の組織や活動を通して、国や宗教といった壁を越えて交流することができるスポーツの可能性を述べる。私は卓球というと中国を中心としたアジアのスポーツという認識があったが、元々はフランスやイギリスの宮廷スポーツであり、100年ほど前からヨーロッパを中心に広まったものだそうだ。確かに卓球は肉体を限界まで酷使する競技から、温泉や老人ホームでの気楽な運動まで幅広い年齢層のものがそれぞれの能力に応じて楽しむことが出来るものだ。日本卓球協会でも「生涯学習」の一環として卓球を位置づけており、ライフステージのそれぞれの段階に応じた卓球のあり方を示そうと改革を進めている。得てして選手に手厚い競技団体が多い中、先見の明がある団体である。日本にも多くの体操や、球技、武道団体があるが、指導者を育て、子どもを育てることに力を入れている団体こそが長い目で見たときに息長く活動していけるはずである。

よくスポーツの概念がピラミッドで考えられていますが、日本卓球協会のばあいには、トップがオリンピック選手、その下に競技選手が続き、底辺があるというような上下関係の一つのピラミッドで考えるのはやめようということで成功しています。二つの山、つまり阿蘇山のような生涯スポーツの山と、槍ヶ岳のような競技スポーツの山がある。二つはパートナー関係で、上下関係ではないと見なしています。一つの山から、もう一つの山へ移るばあいもあるし、どちらもそれぞれりっぱな存在意義があるのだ、そういう考え方に変えようとしています。

『大学大競争』

読売新聞大阪本社編『大学大競争:「トップ30」から「COE」へ』(中公新書ラクレ 2003)を読む。
「COE」とは「21世紀COEプログラム(Center of Excellence)」の略称で、「我が国の大学に世界最高水準の研究教育拠点を学問分野別に形成し、研究水準の向上と世界をリードする創造的な人材育成を図るため、重点的支援を行う」という文科省の大学院博士課程の重点的拡充のための呼び水的な政策のことである。これまでの予備校の模試結果からはじき出された偏差値による序列から、文科省がお墨付きを与える「旧帝大+一橋・東工大・筑波大・早慶」などの研究拠点校をトップとした序列への再編成が目論まれている。特にこれまで表面的には公平を前提とした国公立大学を大きく研究中心の大学と市民養成の教育中心の大学へと色分けしていくためのハードルとしてCOEは機能する。そのため神戸大や広島大、東京外語大、お茶の水女子大などの旧帝大に次ぐクラスの大学が文科省による色分けの当落線上にあり、COEへの採択状況の度合いが大きく今後の大学運営を左右するリトマス紙となっている。

『障害児と教育』

茂木俊彦『障害児と教育』(岩波新書 1990)を読む。
1979年以降養護学校が義務化され、各県に養護学校が整備され、現在では800校近くが日々教育活動を行っている。しかし、その学習内容というと、養護学校高等部でも簡単な国語や算数の授業でお茶を濁すだけである。そして卒業生の多くが授産施設や更生施設に入るしかない状況をただ傍観し甘受しているような有様だ。このような中等教育が単なる通過点になってしまっている現状に対して、著者は積極的な普通教育、職業教育の実践を訴える。「働く」ということと人間の本質との関わりが赤裸々に表れており、いろいろと考えさせる文章を以下少々長いが引用してみたい。

養護学校高等部を卒業して、障害者の作業所に通うことになった18歳のM君。彼は電車に乗って通所するのだが、駅につくと毎朝必ず新聞を買うようになった。そして、電車に乗り込むと、それをひろげて「読む」。彼の知的発達はおおむね5歳程度だから、新聞の字が読めるわけではない。だから上下が逆になっていることもある。ユーモラスなエピソードだと笑ってすませられるかもしれないが、おとななんだ、働いているんだ、そのことを誇りに思う心情が、一般のサラリーマンのまねる、この行為の背後に息づいているのである。もう一つ、特定の個人ではないが、養護学校の中学部、高等部などでよく見られる例。発達段階が幼児期に相当すると考えられるちえおくれの子どもたちに、その段階に相応する活動と考えて、遊びをとりいれた教育活動にとりくんだところ、あまり積極的になってくれない。ところが、畑づくりや木工など労働をとりいれた活動になると、はるかに積極的になり、生きいきと参加する。この理由は、まだはっきりとはつかめていない。しかし、多くの教師が子どもたちの表情から推察して言うところによれば、どうも「こんなことは、小さい子のすることだ」と訴えている、ということであるらしい。
障害児・者は理屈抜きで、それぞれの生活年齢にふさわしい扱いをうけてしかるべきである。それを前提にしてあえて言えば、発達論の角度から見ても、障害をもつ青年は、まず何よりも青年として見られるべきであり、少年は少年として見られるべきなのである。
この点は、学校教育を進める上でも配慮する必要がある。その一つは、教育内容の選択と配列の問題である。先に触れたような遊びと労働のどちらをとりあげるかによって、活動への子どもの参加度が異なるということなどは、この問題の重要性を示唆するよい例である。労働は本来、生産物をあからじめイメージし、計画をたて、機械・道具をつかって対象に働きかける活動である。

健常児と同じように、障害児の中にも高等部を卒業したらすぐに社会に出て働きたいと望む子どもが一定の割合で存在する。こういう子どもたちの願いに応えるためには、障害者の就労機会を拡充し、職業教育でとりあげる職種をふやし、教育内容を充実すること、これがまず必要である。そして高等部などを卒業したのちに、大学・短大のほか職業教育・職業訓練を専門とする学校に進学する道も、もっと開かれていくのがよい。

そしてなかなか実践がうまく進まない交流教育について、京都府の与謝の海養護学校と近隣の小学校の取り組みについて述べているが、その実践の総括を以下に引用してみた。一回きりの優しの押し売りやイベント主義的な交流では逆に障害者を異なるものとして捉えてしまい差別を助長する結果にもなりかねない。地道な関係を結ぶことで真に障害を理解する方策が提示されている。

  1. 「遊び」を中心としたものが、子どもたちにわかりやすく、適当だ。
  2. ペアをつくり、互いに手つなぎをしたりして、直接からだに触れ合い、教え合い助け合う関係を意図的に組織することが大切である(遠くから見ているだけでは、かえって差別感や偏見をもつことが多い。直接からだを触れ合うことで壁をのりこえ、親しみをもつと同時に、同じ人間であるという認識がもてるようだ)
  3. とりくみを重ねることが大切だ(はじめて障害児に接した子どもは、驚きが大きく、自分たちと違う点のみが印象づけられてしまう。回を重ねる中で、「養護学校の人はどんなことができるか」「なんで障害児になったのか」などの疑問をもったり、「この前は歩けんかったのに歩けるようになった」と発達に気づいたりしている)
  4. 両校の教師の話し合いや学習会をもち、共通の目標をもって年間計画をたて、細かい指導の手だてをくんでとりくむことが、成功の鍵である。

『記憶がウソをつく!』

養老孟司・古館伊知郎『記憶がウソをつく!』(扶桑社 2004)を読む。
古館氏の実況中継の時などにふと出てしまう言い回しや、日常生活での思い出話に対し、養老氏が現在判明している段階での脳科学研究者の立場から解説を加えるという形で進行する。中でも、視覚や聴覚といった情報は、全てヒトの大脳新皮質で処理するため言葉で表現しやすいが、味覚や臭覚はヒトの脳内の情動を司る扁桃体に入っていくために、そもそもヒトは味覚や臭覚を言語構成できないという養老氏の指摘は興味深かった。1916年に心理学者のヘニングという学者が人間は甘い、苦い、酸っぱい、塩辛いの4つしか味覚として認知できないということを発表し、それが今日までほぼ通説となっている。しかし、テレビのグルメ番組などを見ると、「さっぱりとした甘さ」や「ほのかに香る何ともいえない風味」など分かったようでよく分からない表現を耳にすることが多い。これらの表現などは