黒井千次『働くということ』(講談社現代新書 1982)を数年ぶりに読み返した。
大学生時分に読んだ時はあまり実感のなかった「労働」というものの本質がかなりの実感を持って理解できるようになった。黒井氏は富士重工業で15年間働いた後に専業の作家となった経緯を持つ作家である。彼は資本主義体制下での労働は分業体制により「疎外されたもの」でしかないというマルクス主義的な労働観を援用しつつも、厳しい労働環境の中でこそ同僚との仲間意識や自己実現が可能になるのでは、と新しい労働観を提唱している。
企業に就職することが生きていく上の必要条件だといいたいのではない。労働に出会うことが、労働の中で自己を確かめようとすることこそが人間の成長にとって不可欠な要件であるといいたいだけなのだ。その意味では、企業の中での諦めと慣れによって労働の本質から身をかわすのも、初めから労働を避けて遠ざかろうとするのも、猶予の下にあって労働の一端を齧っただけで労働がいかなるものであるかを理解し得たと軽率に判断するのも、いずれも逃避的な生であると考えねばならぬだろう。
自らの労働を探し求める者は、たとえそれを満足出来る形で手に入れることが出来ないとしても、その意志と力行によって己の生のあるべき姿を垣間みることは出来るだろう。いや、自らの労働とは、自己の外の高みに輝いているようなものではない。むしろそれを求める懸命の営為の内にこそ埋まっている。つまり、自らの労働を求めること自体が自らの労働を作り上げていく。そしてその営みの中でこそ、真に人間らしい人と人との結びつきのあり方を見出すことが可能となってくるのである。
また1960年代に噴出した欠陥車問題については以下のように述べる。
欠陥のある車を売ってしまったのは、確かに過ちであった。その罪を指摘されれば、生産者の側は消費者に謝らねばならぬ。しかし、それなら一体、誰が悪かったためにこのような過ちが発生したのであろうか。いや私が悪かったために欠陥のある商品が世に出てしまったのだ、と心から痛みを感じるような人間がメーカーの内部に果たして存在するものなのであろうか。これは個人の道徳心やモラルを問題にしているのではない。そうではなく、欠陥商品に対して直接責任を負い得るような体制の中で、そもそもわれわれが働いているのかどうか、といった疑問なのである。
今日の企業で働く人間は、もともとそうせざるを得ないような構造の中に置かれているのである。一つの商品を作り出してそれを消費者の手許に届けるまでの全過程のほんの一部にしか参加していない人間に、商品に対して全面的な責任などとりようがないだろう。彼はあまりに多くの部分で免責されてしまっているからだ。免責されるとは、問題の核心から遠ざけられていることに他ならない。誰かが悪いはずのなのに、その誰かはどこにもいないのである。
社会に対して真に責任をとろうとするには、自分の仕事が世の中になまなましく結びつけられているという手応えがなければなるまい。ところが、それを拒まれた形でしかわれわれは働いていない。つまり、生産と消費という社会的な環の中に、自分の足で立っているという実感を持ち得ないのである。働きがいが容易にわがものとならないのは、このことからもうかがえる。
先日来三菱自動車のリコール隠しの問題がマスコミを賑わしているが、三菱車の不審な事故を興味本位に報道したり、経営陣の責任の追求を分かりやすく報じるだけで、車の製造や販売に携わる労働者の「職業意識」が奪われてしまっているという事件の本質を明らかにするような報道はない。人間誰しも、他人に命じられるのではなく、自分の意志によって、自ら納得出来る形で、自分の労働が目に見える形で完成するまで思うままに働きたい、という労働に対する真摯な憧れを抱いている。それは農林水産業や技術職だけでなく、事務職やサービス業に従事するもの全てが抱く労働観である。三菱自動車の問題だけでなく、本日の新聞の一面を飾った福井美浜町の原発事故など、労働者の心理に立ち返って事故が発生した過程を検討していく必要がある。