斎藤純『オートバイライフ』(文春新書 1999)を読む。
オートバイに関するメカニズムや雑学ではなく,「オートバイ乗りのための〈精神実用書〉」となっている。車で電車でもなくバイクを選択することに意義を求めんとした本である。
(自分を見つめるということについて)オートバイは機械にすぎない。オートバイに過大な期待をしても無駄だ。オートバイは何からも救ってはくれない。自分を救えるのはオートバイに乗る自分しかいない。オートバイに乗っているときも,死んだ振りして会社勤めをしているときも,それは同じ自分自身なのだと認めることは孤独なことかもしれない。けれども,オートバイ乗りはもともと孤独には慣れているはずだ。数百キロの道のりを,たった一人で旅するあいだ,オートバイ乗りが対話をできるのは自分自身だけだ。それをオートバイ乗りは少しも孤独と思わないで,平然とやってのけるではないか。本質的にオートバイ乗りは孤独を恐れない。自我と向き合う勇気を持っている。
著者は片岡義男を敬愛しているためか,ウォルデン森のソローの著作の影響か,「ワイルドな感傷主義」とでもいうべき小説家的な視点からオートバイライフを振り返る。所々に賛同し難い箇所は残るが,上記のバイク乗りが孤独に慣れているという点は同意出来る。決して孤独が好きな訳ではないと思うが,確かにハンドルを握りながら半日もの間,自己としか対話をしないというのは禅に通ずるものがあろう。
PS.この斎藤氏であるが,ネットで調べたところ来週投開票の盛岡の市長選に立候補を決めているそうだ。バイクに乗っている小説家がどのような政策を公約するのか,注目していきたい。