月別アーカイブ: 2002年3月

暇を見つける最良の方法は、規則正しく仕事をすることである。

今日は埼玉武専に戸田へ出掛けた。今年度は本当に忙しくて、恥ずかしながら最初にして最後の参加となった。4月からはきちんと出なくてはダメだ。

現在メルマガで「20世紀の名言」というのを読んでいるが、昨日配信された名言が印象に残ったので引用してみたい。
リズム良い生活習慣から余裕というのは生まれてくるのだろう。やることが多いのだから、より生活を正していく必要がある。うん。

暇を見つける最良の方法は、規則正しく仕事をすることである。
― ヒルティ ―(スイス哲学者)

ハーレクイン

ハーレクインを何冊か買ってきた。
昨日からサンドラ・マートン『抱かれていたい』(ハーレクインロマンス)を読んでいる。
しかし最初の数ページを読んだだけで、既に展開が読めてしまった。仕事に没頭する女性タリアと大会社社長のローガンとのラブロマンスである。最初は誤解やすれ違いから衝突することも多かったが、お互い意識しあう中で、段々魅かれあっていく。恐らく最後は笑顔でキスを重ねるシーンでのハッピーエンドで終わるのであろう。水戸黄門的な話型が一貫した作品であり、読者も安心して読むことが出来るのであろう。イギリス英語の翻訳調の遠回しな表現も読み進めていく内に情緒すら感じてくる。仕事や家族、自分に対して懸命であるが今一つ幸せを実感することが出来ず、ふとした偶然から白馬の王子様がやってくるという話型が、一部の女性ファンに共感を与えるのであろう。相手の男の表情や言い方、仕草の一つ一つを自らの判断に照らし合わせようとする女性心理が丁寧に描かれている。ただ男の私からすれば一冊でもう十分という感じである。

「泣かないで。タリア……お願いだ」ローガンは優しくタリアの頬の涙をぬぐった。「君はとっても柔らかい。どこもかしこもこんなに柔らかいのかな?」
「お願いよ。放して……」
ローガンは頭を傾け、手がたどったあとを唇で追う。彼はタリアの濡れた頬に、あごに、唇にキスした。タリアの全身が震える。
「やめて、ローガン……」タリアは顔をそらした。ローガンは彼女のあごをとらえ、自分の方に向かせて何度もキスを繰り返した。
タリアの脈が速くなり、体の奥の欲望に火がついた。彼のキスで唇がとろけそうな気がした。
「ローガン……」
「僕に腕を回して」ローガンがささやく。
自分が望んでいることをどうして拒めるだろう? タリアはおずおずと腕を上げ、彼の首に絡ませた。
「僕が欲しいと言ってくれ、タリア」

『ゴキブリの歌』

五木寛之『ゴキブリの歌』(新潮文庫)を十年振りに読み返す。
最近半身浴に凝っていて、お風呂につかりながら読書をしている。ぼーっとしながら活字を追っているので、簡単なエッセーばかり読んでいる。その中で『ゴキブリ〜』の中の次の一節が気になった。

黒人たちだけが集まる下町のナイト・クラブに飛び込んだある白人の話である。彼は人種差別に反対で、黒人の立場に共鳴する進歩的な男だった。その彼が、黒人たちの酒場へ顔を出すと、そこで演奏されている音楽が、どれもこれもハリウッド映画調の甘ったるいポピュラー・ソングばかりなのだ。そこでかれは憤然として隣の黒人の客に言った。
「君たち黒人には、ブルースという偉大な音楽があるではないか。君たちの苦しみ、君たちの悲しみ、君たちの希望と怒りを表現した黒人のブルースをなぜ演奏しないのだ。あんなくだらない白人の音楽はやめたまえ」
するとそれに答えて、隣の黒人の客は言った。
「おれたちは毎日苦しいことやいやなことを忘れたくてこの店に遊びに来てるんだぜ。なんでわざわざ金を払って忘れたいことを思い出さなきゃならんのだ」
いわゆる流行歌とか、そんなふうなものなのだろう。怨を艶に転じて歌う微妙な事情は、その辺の大衆の願望にもとづくものではないかと私は思う。

確か前に書いたと思うが、体制によって差別・抑圧されている側が、体制を支援する文化をありがたく享受するという問題だ。山谷や西成にワルシャワ労働歌とインターがこだましているわけではない。野宿労働者「ホームレス」の多くが長嶋ファンであり、巨人軍ファンである。私は学生時代に精神病院で働いていたが、その時患者さんの口から出る話は美智子さんや雅子さんの結婚の話であった。ソルトレークパラリンピックが昨日開幕したが、日の丸を握りしめて日本選手団は元気よく入場行進していた。

これ以上話がまとまらないが、とにかくパラリンピックに出場している選手の参加出来るという喜びに満ちた笑顔は素敵であった。オリンピックに出場した日本の選手があまり浮かない表情を浮かべていたのに比べて対照的だった。パラリンピックにこそ本来のオリンピックの精神が継承されている。順位にこだわることなく、純粋なスポーツとしてテレビで楽しみたいと思う。

『知のハルマゲドン』

小林よしのり・浅羽通明『知のハルマゲドン』(徳間書店)を読む。
「ゴーマニスト」である小林よしのりよりも、浅羽通明の本として読んだ。1995年発行の本であり、まだ小林よしのり氏が「新しい歴史」グループに加担する前の、差別論やオウム真理教問題が論の中心で「なるほど」と思いながら読んだ。ここで小林よしのり氏の言い分は、反保守・反大衆的立場を貫いており分かりやすい。しかし浅羽氏がどのようなポジションに位置しているのか不明であった。彼はオウム真理教を巡る大衆について次のように言い切る。

しかも、それでも悟れない、救われない者もいる。それが前近代の知恵の厳しい現実なのです。だから、昔の人はダメな奴はダメなりの生き方をしたほうが幸せだという身分社会を封建主義から導き出した。私たちは、前近代の思想や宗教のそういう残酷な面を直視してこなかった。近代合理主義の現世的能力主義のシビアさは嫌、かといって前近代の身分制社会も嫌で、民主主義だけは近代の知恵を温存しておく。単なるご都合主義ですよ。

しかし一方で彼は次のようにも語る。

差別表現について、誰にも人を差別する権利はないという言い方がよくなされます。これはまるで「権利」という言葉を、ほとんど倫理的な正しさという意味で用いている。しかし本来、権利には倫理的ニュアンスはない。国家権力がそれについては我関せずの態度を採ると約束した国民の行為が、すなわち表現の自由に代表される自由権なわけですよ。だから国家権力により規制を認めるかどうかが、真の意味での権利があるかないかの問題なのです。そして国家権力は、他人の権利と明らかに衝突する権利行使についてのみ、名誉棄損罪とか侮辱罪を設けて取り締まっているわけです。ですから、憲法上の権利という場合、これらの罪とならないかぎり、差別的表現を含めてあらゆる表現が権利として認められるとするのが原則なのです。

では人権思想そのものを否定する言論とかー差別的な表現をこれに含める人は多いでしょうがーは、野放しなのかというと、それは法的権利の問題ではないんです。「言論の自由市場」という言葉がありますが、法的には一切の言論を解禁したうえで、不当な言論はあくまで言論によって叩き放逐していくべきだというのが、私の基本的な考え方です。(中略)しかし、私は人間性悪説のところがあるから、差別は完全にはなくならないだろうという思いもまたある。その時でも自分自身の悪を知るために、やはり表現の自由を全解禁する。すなわち差別的な言論、汚い言論を封じるのではなく、言論を全解禁したうえで、そのような表現をした作家を侮蔑すればいい。品性の名の下に差別すればよい。

私自身大学に入る前に、浅羽通明著『ニセ学生マニュアル』(徳間書店)を読んでいた経験がある。そのためか、自分の持っている断片化された知識と知識をある別の観点からつなげられると、ある種の快感を感じることは否定できない。
戦後民主主義と平等悪はこのように結びつけられるのか!
大衆化社会と差別はこのような関係にあるのか!
権力構造はこうだったのか!
など知識偏重の大学受験を経験してきた者にビビッとくる刺激である。数学的にロジックをこねくり回しているだけであるのに、妙に「なるほど」とうなずいてしまう私自身の思考力の弱さをひしひしと感じた。