月別アーカイブ: 2001年10月

『燃える沖縄 揺れる安保』

知花晶一『燃える沖縄 揺れる安保』(社会批評社)を読む。
言わずと知れた知花さんは、95年の秋の米軍兵による少女暴行事件に端を発し、「象のオリ」の強制収容手続きや日米地位協定、安保再定義にまで議論が広がっていた一連の騒動の渦中にいた人物である。知花さんが読谷村の集団自決の調査活動や修学旅行生の案内など地道な地域活動を踏まえて、「戦争反対、戦争につながるもの反対」と反戦運動を展開している姿が活き活きと描かれていた。

『反乱のボヤージュ』

今日は、テレビ朝日のドラマ『反乱のボヤージュ』(野沢尚原作・脚本)を観た。
おそらく1996〜98年当時の駒場寮廃寮闘争を描いたものであろうが、いささか失望する内容であった。「全共闘運動」を「父親探し」と位置付け、若者の反乱する力を暖かく見守る「父親的視座」の欠如を訴えるというものであった。寮の内部の落書きや食堂から重機が攻め込んでくる設定など私自身「懐かしい」と感じるものもあったが、今求められる自治寮の意義や展望について全く触れられていなかった。原作がどのような視点で書かれているのか分からないが、テレビを見る限り、30代以下の大半の視聴者は主旨を理解できなかったであろう。

『ムダをさせないクルマ学』

三本和彦『ムダをさせないクルマ学』(情報センター出版局)を読む。
消費者の立場からクルマのうまい買い替え方や保険の利用法に関する内容だ。取り立ててどういうことはない。ただ、感じたことはこれだけ車社会と言われて久しい日本において、なぜ自動車に関する消費者運動が芽生えなかったのだろうか。アメリカのラルフ・ネーダー氏のような「健全な」消費者運動が芽生えなかったのは偶然のことではあるまい。環境問題や生協運動という形はあったが、自動車メーカーを直にターゲットとした運動は生まれなかった。日本人の中に「消費者」という自己規定が生まれにくい土壌があったことも事実だが、そこにはこと日本政府が自動車産業を特別保護していた歴史が伺える。経済学者の降旗節男氏は日本の戦後の経済成長の根幹に必ず自動車があったと指摘する。政治や経済のすべてが、円安を背景にした自動車輸出構造を支えるものであった。新聞やテレビ番組も自動車の広告と広告の間にちょこっと記事があるだけの代物であり、日米安保は自動車の輸出経路を保障するものであり、均質な教育制度は良き自動車の消費者層形成のためであったと降旗氏は述べている。まさに政財官そろって自動車産業を徹底的に護送船団方式で保護していたのだが、そのことは同時にそれに対する運動を根こそぎ刈り取ってきたことを暗示している。おそらく我々の預かり知らぬ所で巧妙な世論操作、マスコミの論調誘導が働いているのだろう。

『風に吹かれて』

五木寛之『風に吹かれて』(新潮文庫)を十年ぶりに読み返す。
高校2年生の時には分からなかったことがおぼろに分かる気がする。それは過去という問題だ。高校生時分は五木氏の「デラシネ」(根無し草)を家族や国家、民族からの離脱と捉えていたが、『風に〜』を読む限りでは、五木氏の「デラシネ」はむしろ過去との懸隔に依拠する点が大きいのではないか。『風に〜』を執筆当時、五木氏は金沢に引っ込んでひっそりと暮らしていた。東京での生活や学生時代を半ば否定するあまりに生まれてくる郷愁があちこちのエッセーから感じられる。ちょうど室生犀星が金沢から東京に越してきて「故郷は遠きにありて思うもの」と詠んだ情感に近い。

思い出したが、最近気になる歌人がいる。道浦母都子さんという人である。70年安保の頃の経験を清冽に歌に託している。そのストレートな感覚は詠むものの胸を打つ。その道浦さんについての考察で面白いページを見つけた。なかなか鋭い視点のコラムが他にもアップされており興味深い。道浦さんの歌を一つ紹介したい。

「その夜より報復おそれ帰らざる 早稲田よ われの墓標たる門」(『無援の抒情』岩波現代文庫)

『日本語と事務革命』

梅棹忠夫『日本語と事務革命』(くもん出版)を読む。
名著『知的生産の技術』を著わした梅棹氏の過去の文章を集めたもので、コンピューター中心の事務作業に日本語はそぐわないという主旨だが、ユニコードがそろそろ一般化しつつある中、論自体が古くなってしまっている。ただし今も私自身キーボードで入力しているのだが、インターフェイスは改善の余地がありそうだ。ニコラ配列のキーボードが安く流通するようになれば、パソコンに向かっての思考もぐっと効率良くなるであろう。