月別アーカイブ: 2000年5月

『FRONTIERS【宇宙】謎の収集』

昨日はアイザック・アシモフの『FRONTIERS【宇宙】謎の収集』(青春出版社 1991)を読んだ。
内容は興味深いのだが、訳がよろしくない。直訳調の日本語で読点の打ち方が悪く、文章にリズムがない。
読みながら、様々な情報が光ファイバーの整備でどんどん光速に近い速さで流通しているが、それを越えるものがあるという星新一の言葉を思いだした。相対性原理に従うならば通信技術がどんなに進んでも、光速を越えて伝わる情報は存在しえないが、事実はそれよりはるかに速く、宇宙の裏側にまで一瞬で伝わる。つまり地球から何十光年も彼方の星に住んでいる夫に、地球に住む妻から子供が産まれたという情報を光速で送っても、夫に届くのは何十年も先であるが、夫が父親になったという事実は子供が産まれたという事実は瞬間に夫に届けられるというものだ。

「村上龍“失われた10年”を問う」

現在NHKテレビを見ながらこの文章を書いている。「NHKスペシャル:村上龍“失われた10年”を問う」という番組だ。
1985年のプラザ合意以降のバブル経済の検証であるが、少々視点が狭い気がする。1980年代後半から2000年の現在までを振り返るには、中曽根政治の内実そのものを問い直す視点が不可欠である。中曽根が「臨調ー臨教審」路線の新自由主義の種を蒔き、竹下が水をやり、橋本が芽を育て、小渕、森政権で開花させんとしている。そこに位置づけられる教育、労働、金融、社会保障、家族制度、情報通信各分野における「規制緩和」政策を総合的に振り返らなくては全てが中途半端な考察に終わってしまい、「規制緩和」をしていない政治、行政にその矛先を向けていくような議論が展開できない。

『驚異の速学術』

今日は、黒川康正『驚異の速学術』(実業之日本社 1986)という本を読んだ。
「あるグループの重要な項目は、全体の中で比較的小さな割合を構成する」という、有名なパレートの「80対20の法則」をどう授業の中で交えていくのか考えた。パレートの法則は野口由紀雄の「超勉強法」の中でも重用視されているが、いざそれを教える側がどう使っていくのか工夫が要る。またこの本の中で効率的記憶の方法として「ツリー式」や「意味付け」「繰り返し」なども紹介されていたが、古典文法や漢文法、評論文用語などにも創意工夫が必要である。

『野火子』

一昨日は五木寛之の『野火子』(講談社 1990)という小説を読んだ。
作品自体は「青春の門」の亜流に過ぎないものだ。その中で登場人物アキラのセリフに「人間とは他人の不幸があって自分の不幸がわかる。(中略)快楽とはつきつめると他人と自分の間の差を実感することに過ぎない」とある。この作品が1968年に発表されたものであるが、現在の五木寛之の「生きるヒント」に代表される「記号論的中庸宗教論」がかいま見える気がする。その解説にある五木の言「人間には、航海者と、漂流者の二つのタイプがあるように思う。はっきりした目標を持って、天測を重ねつつ未知の大陸をつきすすむ航海者。潮流にまかせて、膝小僧をかかえながらぼんやり流れて行く漂流者」に懐かしみを感じた。

研究集録が…

明日締め切りの研究集録が書けない。昨年度授業で扱った中野重治の「歌」を解題しようと思っているのだが、いろいろと考察が多方面に及んで流れがまとまらない。卒論を切り貼りして何とか仕上げねば。しかし今読み返してみても私の卒論の視点はすばらしい。視点は素晴らしいのだが……

以下 追加


中野重治『歌』解題

 昨年度高校一年生の現代文の授業の中で中野重治の詩『歌』を採り上げた。授業の中では時間の制約上、表面的な読解に留まり、作者中野重治の姿にまで迫ることが出来なかった。この論の中で1920年代から30年代の中野の主体性を探ることで、この『歌』が中野にとってどのように意味づけられるのか考えてみたい。

 歌

おまえは歌うな
おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべてのものうげなものを撥き去れ
すべての風情を擯斥せよ
もっぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え
たたかれることによつて弾ねかえる歌を
恥辱の底から勇気を汲みくる歌を
それらの歌々を
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸郭にたたきこめ

 この詩は1926年(大正15年)9月、作者中野重治が東大在学中24歳の時に、同人誌『驢馬』に「機関車」という総題のもとに発表された作品である。

 中野重治は1932年に治安維持法によって投獄され、2年間の獄中生活を余儀なくされ、法廷で日本共産党員であることを認め、共産主義運動から身を退くことで出所を許されという経緯を持つ異色な作家である。しかしこの「転向」宣言が原因で、一般に中野は文学史においては「転向作家」と称されている。そして文壇の評では、捕まったその日に撲死した小林多喜二や45年の敗戦に至るまで「非転向」を貫き通した宮本顕二と比較され、彼らよりも明らかに下に位置づけられている。そして現在にいたるまで正当な評価を得られていない。また中野自身戦後になっても、「転向」作家のレッテルが重くのしかかり、自らのポリシー、作品について解説することはほとんどなかった。そのため中野の詩や小説の解釈は戦後の評論家に委ねられ、文壇政治の中で中野の意図が歪められてしまっている。21世紀を迎えようとしている現在、この『歌』という作品について中野の「転向」後の主体性を踏まえて新しく意味づけていく必要があるのではないか。

 東京書籍版「指導資料」では、この歌の主題を「郷愁や情念をよびおこすような歌、現実離れした、実生活の役には立たない歌は排斥し、生きていくのにはなくてはならないもの、そこから生じる問題を歌った、行動を促すような歌をつくるように自分に命じている」と説明している。
 分かりやすく言い換えると、つまりこの詩は「赤ままの花」「とんぼの羽根」「風のささやき」「女の髪の毛の匂い」などを歌うことを強く否定している。それらは作者によればすべての「ひよわなもの」「うそうそとしたもの」「ものうげなもの」あるいは「すべての風情」を意味している。それらすべての日本の伝統的な短歌的抒情の風土で花開いた卑小なもの、退嬰的なものを歌うべきでないものと性格づけているのだ。

 それではなぜ中野がこの『歌』の中でこの日本的風土を「撥き去れ」「擯斥せよ」と規定したのだろうか。当時の中野の経歴について少し触れてみたい。

 『歌』の書かれた2年前の1924年、中野は金沢の四高より、東大の独文科に入学した。四高時代に文芸同人誌の編集委員として活躍した中野は、1925年の夏に林房雄らの影響により「東大新人会」に入会した。そして秋には大学内で社会文藝研究会を創設し、翌26年にはマルクス主義藝術研究会を創立、室生犀星のもとに出入りしていた窪川鶴次郎、堀辰男らと共に同人雑誌『驢馬』を創刊した。同年の11月には日本プロレタリア藝術同盟に参加し、中野は文学運動の主流の中軸として活躍していった。

 この当時の「東大新人会」は初期共産党で理論的支柱として活躍した福本和夫の強い影響のもとに活動していた。福本 和夫はドイツフランクフルト学派の研究所で学び、独自の「分離-結合」理論を唱えた人物で、当時の日本共産党の中心であった堺利彦・山川均らによる運動の大衆化路線を否定したことで知られている。彼の「分離-結合」理論は雑誌『マルクス主義』の中でつぎのように紹介されている。

 マルクス主義の理論と経験とは答えていう、-一旦自らを強く結合するために、「結合する前に先ず、きれいに分離しなければならない。」と。「単なる意見の相違」-同一傾向内の-と見えたところのものを「組織問題」に迄、従って単に「精神的に闘争する」に止まりしものを、「政治的、戦術的闘争」にまで開展しなければならない。(「無産者階級の方向転換」)

 1920年代の日本において異端といってもよい福本イズムがなぜ当時の共産党に強い影響力をもったのだろうか。
福本はレーニンが「目的意識性」と「自然成長性」の区別したことに依拠して、「日本の運動にとって緊急の課題というのは運動の大衆化ではない。一切の折衷主義や『ズルズルべったり』の妥協から訣別して、厳格な理論と世界観で労働者階級を武装させることがまず先行すべきである」と主張した。そしてそれまでの山川イズムを折衷・組合主義として批判し、理論闘争による前衛分子の分離・結合理論を展開していった。

 それまでの知識人は「人民大衆のための社会」を唱えながらも、自らはエリートであるという矛盾に悩んでいた。知識人階級に属するエリートは労農大衆に対するコンプレックスに悩まされ、「激烈な階級闘争の間にはさまれた無力な青白きインテリ」という負い目をおっていた。有島武郎は「どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何者かを寄与すると思つたら、それは明らかに僣人沙汰である。第四階級はその人たちの無駄な努力によつてかき乱されるの外はあるまい。」と1921年に「宣言一つ」を書いて命を絶った。

 しかしこのような状況の中、福本イズムに出会った知識人階級は、共産主義運動は人民階級の中から「自然成長」的に作っていくべきものではなく、大衆に「目的意識」を作ることが先決で、「理論と世界観を労働者階級に植え付ける」という積極的な使命を与えられたのであった。

 学生時分の中野はこの福本イズムの熱烈な「信者」となった。福井の農村の片田舎出身で旧制高校を留年して遅れて大学に入ってきた中野にとって、過去はあまり触れらたくないものであった。新しく東京の生活が始まり、共産主義運動に関わっていく中で、田舎の、そして封建的な旧来のものは中野にとってひきずってはならないものであった。中野にとってこの福本イズムのいう「分離」は政治闘争の前に、自分の過去半生との「分離」として現れてきた。そして大学での文学運動のなかで友人との「出会い」と並行して、田舎に暮らす家族との「別れ」を彼は試みたのだ。次に福本イズムのいう「分離」は中野にとって高校時代に親しんだ短歌や和歌といった詩的世界との「分離」として現れてきた。中野にとって福本イズムのいう「分離」の後に形成される前衛分子の概念はまさに宗教のような絶対的な他者性をもってあらわれた。福本は労働者階級を先導する職業革命家の中央集権的組織と規律をもった前衛党を作るというレーニンのボルシェビキ党の建設を主張した。この極端な前衛概念は党員に家族や田舎と明確な決別を求め、そして左翼内での激しい理論闘争を土台としていた。『歌』創作と同時期に中野は、この福本イズムに拠った文学運動の理論を数多く執筆している。

 そしてそのために進撃者の陣営の浄化が、進撃者の陣営内の理論的斗争が、無条件の必要事となるだろう。
観念の闘争に真実の関心を持つものは、その現象の本質を見るために、彼の闘争を残りなく戦いぬくために、自己の陣営内における理論的闘争を戦うために勇気ある一歩を踏みだすだろう。日本における無産階級文藝運動は、それをこのときに入つて始めるだろう。私は予言しよう、「そこにわれわれの任務がある。」(「一つの現象」)

 わが国無産者運動の現発展段階が、わが国のいわゆる無産者的文藝運動の自然成長的過程にたいしていかなる関係に立つか、したがつてまたわが国無産者運動にむかつてわが国無産者的文藝運動はいかなる条件のもとに真に合流しうるか、このことが全階級的に究明されないかぎり、わが国無産者的文藝運動はそのあらゆる進展にかかわらず、なおいまだ自然成長的成長過程を進まざるをえず、自然成長性を揚棄して目的意識を戦いとることをなしえないであろう。(「『検察官』の上演に関連して」)

 われわれの藝術は今何をなすべきか。それは簡明ではないか。彼は全人民を、全人民の感情を、一定の方向へと激成して行くためにこそその全身を捧げねばならないということこれだ。(「結晶しつつある小市民性」)

 1927年にコミンテルンによる福本イズムの否定以降も、中野は自らの掲げる「もっぱら正直のところ」「腹の足しになるところ」「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところ」「たたかれることによつて弾ねかえる歌」「恥辱の底から勇気を汲みくる歌」を創作していくために、ふるさととの「分離」、身内での理論闘争による「分離」を繰り返した。そしてそこから外れていくものに容赦ない攻撃を加えながら、前衛党の組織化に向けて労働者階級からの文学に拠る理論闘争に埋没していった。当時の中野にとって、『歌』の前半部における「歌うべきでないもの」とは旧来の日本的風土に根差した家族、封建制度であり、後半部での「歌うべきもの」-「のどをふくらまして」歌う「厳しい韻律」-とは共産主義運動を鼓舞するものを意識していたことは間違いない。

 では詩人として出発した中野はこの『歌』以降、日本的詩情そのものまで否定したのだろうか。「すべての風情」に感動する詩人的感性を否定したのだろうか。中野はその後も同人誌「驢馬」に次のような詩を書いている。

 挿し木をする

今日は三月二十一日
ほのかにこな雪がちらついて
あたたかな春の彼岸の中日です
おいで妹たち
僕らは挿木をしよう
お祖父さんやそのまたお祖父さんたちがやつたように
今日は仏の日で挿木の日だ
雪は僕らの髪の毛にかかろう
そして挿木はみずみずと根をさそう

 なんと中野は自然に対して、そしてふるさとに正直に情感をぶつけていることか。この歌では挿し木をするという行為に作者の故郷を大切にしたいという思いが丁寧に込められている。また1939年に書かれた小説『歌のわかれ』の中には次のような一節がある。

 突然彼は立ち止ってきょろきょろと見回した。かれは鼻の孔をひろげて、鼻のまわりの空気を、むしろそのなかのある匂いを、痩せた両肩を首根っこへ引き上げるようにしてきゅうっと吸い上げた。その一瞬で、彼はそれが薤の匂いであることを認めた。するとまた別の匂いが流れてきた。それをも彼は吸い上げた。たしかにそれは辛菜の匂いだった。
 彼は見回した。彼はすぐ左手のところに野菜市場をみつけた。キャベツや白菜を山のように積み上げた馬力がそこから出ていくのが見えた。白菜の肌の緑色と白とが美しく朝日に光っていた。大きな竹籠の積まれたうしろには真紅な生薑の山の濡れたのが見られた。それらの匂いと味の記憶とは、今の安吉にとって全身的につうんと来るものだった。舌ばかりでなく彼の精神が唾をたらすようだった。彼は玉葱を切った時か何かのようにうっすらと泪ぐんできた。

薤・辛菜・キャベツ・白菜・生薑・玉葱-と、作者中野は短い文章のなかに野菜の名を数え上げる。それらの匂いと味の記憶は、中野の全精神・全生活を捉えて離さないものであった。中野は『歌』を書いたその後も自然に対する感動を隠すことなく様々な作品で綴っている。すなわち中野は詩人的感性すらも否定したのでなく、その詩人的感性でもって、彼の運動に対する決意に水を差す一切の封建的、保守的なものを攻撃したのである。

 しかしその否定すべき封建性・保守性のもっとも象徴的なものである「家族」がその後、中野の心に大きくのしかかってくる。
 1931年の柳条湖事件以降、日本はいよいよ戦争体制国家への整備を進めていくことになる。アジアへの侵略と国内への弾圧が一層苛烈なものとなっていった。『歌』創作の6年後、中野は1932年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に対する弾圧によって当局に逮捕された。そして34年3月、東京地裁で懲役4年の判決が下され、東京控訴院法廷で日本共産党員であることを認め、共産主義運動から身を退くこと約束し、求刑4年、懲役2年の執行猶予5年の判決を受けて「保護観察処分」の扱いで出所となった。この獄中での2年間、中野は肉体的・精神的にぎりぎりのところに追いつめられ、生死の淵をさまよい、獄中で死ぬことを半ば突きつけられ、その意味を問いつめ続けた。その当時の様子を克明に語った『村の家』という作品において勉次(中野自身がモデル)は次のような状況と向き合っている。

 そのころ勉次はからだを悪くしていた。熱が何度か医者は知らせなかったが、ひと晩のうちに三度も四度も汗で眼が覚め、病室がいっぱいではいれぬため寝間着を部屋の中で乾かさねばならなかった。十二月にはいってからは決して乾かなかった。予審は終って公判が近づいていた。公判の近づきは下獄の近づきを意味した。彼は治療が今度の逮捕で中断された黴独のことを考え、それからくる発狂に恐怖を感じた。彼は死よりも発狂を恐れたが、恐怖の瞬間にはほんとうにはどっちを恐れているのか弁別できなかった。

 20年代後半以降共産党に対する弾圧が続き、逮捕者が続出し党は壊滅状況にあった。中野も逮捕された後、仲間であった小林多喜二の虐殺を知り、死の恐怖と嫌が上でも向き合うことになった。それに加え、相次ぐ共産党幹部の「転向宣言」を耳にするにつけ、彼の心の中で共産党引いては共産主義運動に対する信頼が崩れてきた。このことは福本イズムのいう「分離-結合」の中で運動に関わっていった中野の運動の全てを否定するものとなった。
 しかしこうした中野の苦しい獄中生活を物心両面にわたり支えたのが故郷の家族であった。中野は獄中から家族に頻繁に手紙を書き、交流を求めている。そのうちのひとつを見てみよう。

 中野藤作へ 5月17日

 今度はまた急なことを申していろいろ御心配をかけまことにすみませぬ。手紙・電報などでおっかけ引っかけお騒がせしたについては、まさの、鈴子の方にも手落ちがなかったとは言いませぬが、それも私の言葉に従ったまでで、つまりは私がうろたえたからのことでした。
 病気と公判期日とがかち合ったため、やはり私が大分あわてていたことに今気づいている次第です。重ね重ね御心配をかけ、申し訳ありませぬ。
 幸いからだの調子は、昨日、一昨日ごらんの通りで、一日一日よくなって来ていますからどうぞその点は御安心下さい。おかえりになったらおっ母さんにもよろしくお話し下さい。

 お父さんのお元気には私もありがたく喜んでいます。血圧のことは、馬鹿にしてはいけないでしょうが、心配はいらぬと思います。どうぞなるたけ無理をなさらぬように願います。村野寄合とか何かの祝いとかいう時に、村の人達は大分たくさん飲むようですが、そういう時気をおつけなさればそれで十分でしょうと思います。急に酒を止めるというのはかえって悪いそうです。すべて生活状態を急に変えるということはよくないそうです。
これから暑くなりますから食べ物にはよく御注意をねがいます。私は自分のからだの事も今度の病気で一層よく分り、今後二度とこんな病気はせぬように気をつけます。どうも今度の御上京について申訳もありませぬが、その点はおゆるし下さい。

 もう一度面会に来て下さることですが、おかえりの汽車はよくよく気をつけて下さい。三人で写真をとっておっかさんへ送ったらどうでしょうか。鈴子もその後お目にかかっていないわけですし、まさのはいつかずっと前に小さなハッキリしないような写真をお送りしただけですから、今度取って送ってあげてはどうかと思います。今日はこれだけに致します。なおよくお気をおつけなすって下さい。

 中野は投獄されて初めて、家族と自分のつながりを再確認した。『歌』の中で完全否定したふるさとに住む「家族」に支えられて出所することができたのだ。そして彼は妻まさのとの夫婦関係だけでなく、父の藤作、妹の鈴子との家族関係を断つことは不可能だと悟ったのだ。中野は「自分は決して空想世界に生きるヒーローでもなく、理想郷建設の絶対的なリーダーでもない。福井に住む父母、女優業に懸命な妻、東京で苦労しながら暮らしている妹達との関係の中で存在している一人の市民」であることを再認識したのだ。そして出所して後、中野は思想的に閉ざされた世界に自分を置くのではなく、家族とのつながりで結ばれた自分の立場性に根差して、その中から運動をすすめていかねばならぬと意識したのだ。
 『村の家』において、父孫蔵(中野重治の父藤作がモデル)は「転向」し出獄して村に戻った息子勉次を次の言葉で問いつめている。

 「おとつつあんらア何も読んでやいんが、輪島なんかのこのごろ書くもな、どれもこれも転向の言いわけじやつてじやないかいや。そんなもの書いて何しるんか。何しるつたところでそんなら何を書くんか。いままで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。それや何を書いたつて駄目なんじや。いままで書いたものを殺すだけなんじや。どうしるかい。」

 勉次は決められなかつた。ただ彼は、いま筆を捨てたらほんとうに最後だと思つた。彼はその考えが論理的に説明されうると思つたが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。彼は一方で或る罠のようなものを感じた。彼はそれを感じることを恥じた。それは自分に恥を感じていない証拠のような気もした。しかし彼は、何かを感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまいと思つた。これは彼らの組織の破壊をとおして、自分の経験でこの二年半のあいだに考え積つたことである。自分は肚からの恥知らずかも知れない。しかし罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破つたらそれこそしまいだ。彼は、自分が気質的に、他人に説明してもわからなぬ破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけた淋しさを感じたが、やはり答えた、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」

 孫蔵は非常に興ざめた顔をして大きな眼の瞼を奥の方へすつこましていた。勉次はこの老父をいかにむごたらしく、私利私欲のために、ほんとうに私利私欲-妻をも妹をも父母をも蹴落すような私利私欲のために駆りたてたかを気づいていた。静かな愛想づかしが自分のなかに流れてきた。

 この「村の家」の一節の解釈は文芸評論家によって様々に解釈されている。しかし、ここで中野は投獄以前の福本イズムにかぶれていた頃を「私利私欲」と位置づけている。

 しかし最後に中野は妻、妹、父母とつながりを持つ自分の主体性でもって、また「書いて行きたいと思います」と固い決意表明をしている。同時期に書かれた文章に次のような一節がある。

 弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林(多喜二)のいきかえつてくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。 僕らは、そのときも過去は過去としてあるのであるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。(「『文学者に就いて』について」)

 ここで中野は筆を折ろうと弱気を出したが最後、「彼をころしたものを作家として支えねばならなくなる」、すなわちファシズムに加担することになると不退転の決意を述べている。しかし当時の国家総動員体制の中、治安維持法で捕まり、「保護観察」という思想的拘束を受けている中野にとって「人間および作家として第一義の道を進める」という決意はなまなかのものではない。しかし小林多喜二の死を無駄にしないためにも、「革命の党を裏切り、それにたいする人民の信頼を裏切つた」という「消えぬ痣」を背負って大衆に自らの「みすぼらしい」姿を晒して中野は再び立ち上がっていくのである。中野にとって「書く」という行為は物書きとして生計の手段であるが、同時にそれは日本を侵略戦争へと駆り立てていく「彼を殺したもの」との戦い、つまり国家権力との戦いであった。そしてその戦いは逮捕以前の日本共産党という思想的な後ろ盾に支えられたものではなく、家族や妻、ふるさとといった現実的な関係性を踏み所にした戦いであった。

 獄中生活を通して、中野が1926年に『歌』で否定したふるさとが逆に、彼に強固な地に足のついた強い主体を形成することになった。彼は「転向」宣言後、思想的な自慰満足に過ぎない「胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところ」「勇気をくみ来る歌」「厳しい韻律」とのフレーズの方を否定したのである。そして前半部で展開された「赤ままの花やとんぼ」に囲まれたふるさとに暮らす父母、香しい「髪の毛の匂い」をもった妻とを持った現実の自分と向き合っていくことから、「転向」宣言せざるを得なかった自分の姿をさらしていくことを自分の出発点とする決意を固めたのである。そして後年彼は1939年に『歌の別れ』という作品の中で主人公片口安吉(中野重治自身がモデル)をして次のように言わしめている。

 彼は袖を振るようにしてうつむいて急ぎながら、なんとなくこれで短歌ともお別れだという気がしてならなかった。短歌とのお別れということは、このさい彼には短歌的なものとの別れということでもあった。それが何を意味するかは彼にもわからなかった。とにかく彼には、短歌の世界というものが、もはやある距離をおいたものに感じられだしていた。彼は手で頬を撫でた。長い間彼をなやましてきたニキビがいつのまにか消えてしまって、今ではそこが一面の孔だらけになっていた。いつから孔だらけになったか彼は知らなかった。しかし今となってはその孔だらけの皮膚をさらしてゆくほかはなかった。彼は凶暴なものに立ちむかってゆきたいと思いはじめていた。

 彼が後年否定した短歌的なものである「詩集」は現在も文庫に収められ版を重ね、教科書にも採録されている。それは中野がこの『歌の別れ』で表明した「その孔だらけの皮膚をさらしてゆくほかはなかった」との思いの通り、そうした否定すべき自分の「誤り」を大衆にさらすことが、「人間および作家として第一義の道」と規定した彼自身の信念によるものだからである。

(参考文献)

東京書籍「指導資料」
筑摩書房刊定本版「中野重治全集」(一九九六年四月~一九九八年九月刊)
H・スミス「福本イズムの時代」『新人会の研究‐日本学生運動の源流』東京大学出版会・一九七六年
栗原幸夫「全体的主体 中野重治」『プロレタリア文学とその時代』 平凡社・一九七一年
石見尚「一九二〇年代の政治思想におけるいわゆる福本イズム」『福本和夫-「日本ルネッサンス史論」をめぐる思想と人間』 論創社・一九九三年
福本和夫「方向転換はいかなる諸過程をとるか」『無産者階級の方向転換』希望閣・一九二六年四月
岡田孝一「〈消えぬ痣〉への考察2」『貌』二号・一九七九年二月
柄谷行人『近代日本の批評 明治・大正編』 福武書店・一九九二年
柄谷行人「中野重治と『転向』」『中央公論文芸特集』 中央公論社・一九八八年冬季号