昨日の新聞を今日読み、文芸評論家の小田切秀雄さんの死を知った。卒論を書く際に私も拝読したが、中野重治の一番の理解者だった人物だっただけに残念だ。小田切秀雄さんの中大の学費闘争に寄せた文章を過去に参考にしたことがあるが、それも秀逸だった。運動の現場から中野重治は読まれなくてはならない。しょぼい大学の文学部教授などに中野を論じて欲しくないと私は感じていたが、その点で小田切さんの文章は現場感覚がにじみ出ていた。
以下 追加
大学をめぐる紛争-私の意見-
(思想の科学 1968年4月号 No.74)
小田切秀雄
警官導入をめぐって
学生運動が直接に支配権力にぶつかってゆき警官隊と流血の衝突をする、というのは、以前は後進国だけの独自なことだったが、さいきんはすっかり変わってきましたね。アメリカの学生運動がさいきんのような激しさを示したのは空前のことで、知識人や市民の反戦行動ともども、アメリカ社会とその意識とが深部からはげしく転換しはじめていることを語っている。そして、アメリカだけでなく、フランスの学生運動、イタリーから西ドイツの学生運動までもが、警官隊とのはげしい衝突を示すようになっている。社会主義国のポーランドでさえ、そういう衝突が起こったと伝えられています。
日本の学生運動のさいきんの様子、機動隊との衝突のくりかえし、ということも、そういう世界的な動きのなかで見る必要がありましょう。権力がわの大衆支配、世論操作がきわめて高度化している現状のなかで、権力がわの政策に反対する政治的な意志表示の行動が、ただちに警官隊との衝突をともなわざるをえないということに、民主主義の現代的な新たな深刻な問題が出てきています。世界的に帝国主義諸国の権力がしだいに追いつめられてきていて、現に危険な進路をえらび、またはこれからえらぼうとしているときに、革新組織や労働者組織がすでに体制内の安全弁的な有機的機関と化しているところでは、学生たちが前面に出て行って権力がわに進路変更を求めざるをえない。それにたいして権力がわは、国家権力のほんらいのもっている暴力装置としての側面を露骨に発動するにいたる。
日本の場合、革新組織がすでに体制内野党と化してしまった、といえば言い過ぎですが、革新政党の一部には、何かというとすぐに機動隊に依存するという動きがここ数年いちじるしく、しばらく前の夏の広島から、さいきんの佐世保にいたるまでその例が多い。これは、まったく体制内野党の思考様式と感覚でしょう。大学でも、進歩的な大学と見られているようなところでさえ、当局者となった進歩派の教授たちが学内に機動隊を導入して学生を逮捕させ、またはそれを予定に入れて学生対策をたてる、というようなことが行なわれているようで、これでは、昭和26年のいわゆる次官通達(警官の学内導入を規制したもの)を、いま政府がわがふみにじろうとしているのにたいして、どのようにして対抗するというのか。学生の問題を、大学自身では処理できぬところに至ったと、大学当局があっさり断定し、そこにいたるまでにも教育の場としての公正と辛抱強さを欠いていたことに無反省な、そういう大学がふえているのにたいして、学生がわでは、いわゆる活動家以外の非政治的部分までが、大学内の問題を外部の暴力装置をかりてケリをつけるやり方に、本能的な反撥をもち、大学不信の念を深めている。学生がわが乱暴な行為に出るのにたいしては、教育の場としての公正と信念による辛抱強さとによって対処する以外にはない、と私は信じています。
この点で、さいきんの佐世保事件のさいの九州大学の教授たちの動き方は、全体としてたいへんにりっぱだったと思う。空語と化したように見えていたアカデミック・フリーダムということばが、実体をもって生きていたわけです。私大のほうがかえってそういう伝統に弱くて、学生自治会の委員名簿をひそかに警察に届けている、というようなところが多い。驚くべきことですが、事実です。ただし、このあいだの中央大学のように、いろいろの問題はもちながらも最終的には、機動隊の導入とそれのもたらす結果にたいする配慮から、学費値上げ案をひっこめたというのは、そのかぎりでは、よかったですね。
授業料問題
しかし、政府によるインフレ政策の急激な進行のなかで、いつまでも学費値上げをしないでいるということはできません。インフレに苦しんでいるのは学生のその父母だけではない。大学教師の低賃金は、敗戦後ずっと一貫した特色になっていて、極端なカケモチ教授や研究離脱型教授がふえているのも、本当のところやむをえないという面がある。だいいち、教師が誠実かつ熱心であろうとすればするほど、また学生との個人的な交流をつくろうとすればするほど、いまのマンモス大学のもとでは、教師として労働過重になり過労になり、学者としての研究上の努力はオルスにならざるをえず、生計上では自分の子供を大学にいれることさえむつかしくなる、というのが実情です(米・ソ・仏・英・東独・西独・加・等々の諸国にくらべて、ほぼ三分の一から五分の一の給料です)。ただし、それだからただちに学費値上げをすべし、ということにはならない。私大の場合、学費値上げをする前にまず改革しておかねばならぬ無数のことがある。支出すべからざることに多額の支出を行ない、ていさいをととのえるためにりっぱな建築や設備をきそい、むかしからの行きがかりを断つことができず、研究と教育の充実のための沈潜も気迫もない-こういう状態のままで、安易な値上げを決めて学生におしつけるのでは、学生がわとして納得できないのは当然のことであり、学生活動家の宣伝と扇動は成功せざるをえない。
学生たちは、政府のインフレ政策への反撃のためにそのもっとも弱い環として大学を追いつめる、ということをも考えているのであろうが、それ以上に、学費値上げ反対運動を機に大学の現状を改革することをめざしているのであろう。何が何でも値上げ絶対反対、というのでは、やがてかれらが学生大衆からも浮き上がってしまうことくらい、十分に承知しているはずだからです。したがって、大学がわとしては、学費値上げを大学改革計画およびその手順と結びつけて実行する以外には、学費紛争に解決の道はない。中央大学は学費値上げ案を大学改革案と結びつけて提出したので、その限りでは妥当な進み方をしたのだが、改革案の内容は教授さえ、どれほども納得させえないていどのものだった。学費問題は経済問題であるばかりでなく、それ以上に大学改革の実行の問題であり、機動隊の導入の危険ということだけでなく、大学自治の実質そのものの問題でもあります。学生運動を狂犬の集団のようにいう大学当局者がいるが、自分の弱みや怠惰をタナに上げて威たけだかになる大学当局がわこそが、学生を乱暴な行動にかりたてている(または乱暴な行動をしたい一部の者にその原因を与えている)場合がすくなくない。
現状では、一般に学費値上げを避けることができず、したがって紛争は各私大で続かずにはいないでしょう。そのさいに、ほんとうに大学改革が行なわれるかどうか、が“大学の顛落”を避けるかどうかを決めることになると思います。