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『光源氏の一生』

池田弥三郎(1914~1982)『光源氏の一生』(講談社現代新書 1964)を読む。
来週から授業で「若紫」に入る予定なので、教材研究の一助として手に取ってみた。読みやすい文章で、一気に読んでしまった。いつまでも『源氏』の人物関係図が整理できない自分にとって、大変分かりやすくあらすじがまとめられており、千載一遇のベストな一冊となった。

タイトルにある通り、光源氏の視点で物語が展開されており、光源氏自身の男としてのビルドゥングスロマンという側面で話が再構成されている。また、著者は、光源氏自身も含む皇族の流れを汲む「王氏」と、頭の中将(内大臣)などその他の氏族の「他氏」との政治的な軋轢を強調し、玉鬘の後見や夕霧と雲井の雁の恋、柏木と女三の宮との不義など一連の処遇を、源氏の政略的な判断と見ている。

私が手にしたのは1994年発行の第54刷であったが、現在でも講談社の方では増刷を続けているようである。古典好きな受験生に是非薦めたい本なので、時流に負けず今後も発行を続けてほしい一冊である。

『知ってる古文の知らない魅力』

鈴木健一『知ってる古文の知らない魅力』(講談社現代新書 2006)を読む。
『源氏』や『平家』『枕草子』『おくのほそ道』『竹取』『伊勢』の古文教材を代表する6作品をとり上げ、有名作品の特徴的な場面や表現がそれ以前の作品の影響を受けていたり、また以後に影響を与えていたりしている例を丁寧に紹介している。徒然草の有名な冒頭部が『和泉式部正集』や『堤中納言物語』の文そっくりであったり、『平家物語』のあの冒頭部も法然が作った『涅槃和讃』にそのままの言葉があったりという事実を初めて知った。

著者は〈共同性〉と〈個性〉というタームを用いながら、有名作品においても、その作品以前にあった類型や言い回しをとりいれることにより、重層的な世界観が表現されていると述べる。

「和泉式部集」
つれづれなりし折、よしなしごとにおぼえし事、世の中にあらまほしきこと。 いとつれづれなる夕暮れに、端に臥して、前なる前栽どもを、唯に見るよりはとて、物に書きつけたれば、いとあやしうこそ見ゆれ。さばれ人やは見る(後略)。

「堤中納言物語」
つれづれに侍るままに、よしなしごとども書きつくるなり。

「讃岐典侍日記」
つれづれなるままによしなし物語、昔今のこと、語り聞かせ給ひしをり、……

また、あとがきの文章で、本論とは少し文脈が異なるのだが、現在の私の職場の現状を評しているような一節があったので引用してみたい。

昔、誰かの文章を読んでいて、学校というのは「空間」ではなくて「時間」なのだと書かれてあって、いたく感心したことがあります。ある一定期間、そのキャンパスに在籍し、楽しく勉強したり遊んだりしたという記憶は、その人がそこから去った後も、その人の(そしてその人の友人や私の)脳裏に思い出として残り続けるでしょう。私自身、小学校から大学まで過ごした学校の校舎はほとんど建て替えられていますが、思い出すのは昔の校舎での先生や同級生とのやりとりです。かりに校舎が残っていたとしても、すでにあの時の先生や同級生はそこにはいません。そういう意味でも、学校は「時間」であるわけです。
このことをもっと広い意味で一般化して言い換えると、ある記憶や思い出を共有することによって、人と人がつながっている、ということになります。
そのような共有の感覚を、さらに長い時間をかけて熟成させたものが、本書で繰り返し述べてきた〈古典文学における共同性〉です。この

『苦役列車』

第144回芥川賞受賞作、西村賢太『苦役列車』(新潮社 2011)を読む。
表題作の他、自身のぎっくり腰と文学賞受賞に纏わる心模様を描いた『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』の2編が収められている。
「現代版プロレタリア文学」との評価を聞き、早く読んでみたいとと思っていた本である。著者自身の体験を踏まえた私小説であり、変に政治や社会に向けて背伸びすることなく、19歳の日雇いの青年の等身大のやるせなさや怒りがストレートに表現されていた。

読みながら、20年前、神奈川の伊勢原から、町の名前すら聞いたこともなかった足立区の竹の塚まで、トラックに荷物と一緒に運ばれていった私自身の19歳の頃の風景をふと思い出し、感傷的な気分に浸った。

『対談 中国を考える』

司馬遼太郎・陳舜臣『対談 中国を考える』(文春文庫 1983)を読む。
1974年から1977年にかけて4回にわたって行われた対談がまとめられている。
二人とも同じ年に同じ関西で生まれ、大阪外国語学校の同窓であると初めて知った。
中身は博学なお二人ゆえ、時代は春秋戦国から隋唐、清朝末から辛亥革命までの1000年単位で、地域は日本やヴェトナムから新疆ウイグル自治区まで数千キロ単位で話が展開していく。
中でも、司馬氏1974年の対談時の次の言葉が印象に残った。現代風に解釈すると、異民族をも受け入れるようなグローバルな価値観と、狭隘なローカルな価値観の対比を述べていると思われる。多民族国家である中国を、いつまでも日本と同じレベルでの国家観で捉えてしまう危険性を司馬氏は指摘している。

どこからみるかが大事な問題で、いまはアメリカの方が、日本よりもはるかに中国に対する視点は正確ですよ、遠いから。水平線上にあるから。巨視的に見えるから、本質が見えるわけね。

(中略)僕はとにかく、モンゴルという中国人よりも弱い立場のところから見るから、なんとなく薄ぼんやり中国が見える気がする。(中略)日本という地続きでない国の立場から見ると、わかりにくい。これはほんとうにわかりにくい。中国に松下電器みたいな会社あるかっていうような見方っていうのは、技術主義国家の見方ですね。こんな立場で見たら、どの国もわからんね。アメリカ人には劣等感持つわね、松下電器よりもいい工場あるかもしれんから。だからこういう物の見方はどうしようもないと思います。僕は何も中国贔屓とか、そんなんで言ってるんじゃない。日本人を救う方法として言ってるわけでね。日本人を救う方法は普遍性を知ることであって、普遍性を知る手近な方法は中国を知ることかもしれない。アメリカやフランスも普遍性は多分にあるわけですね。ところが、アメリカ、フランスという文化で眩惑されてしまって、普遍性がよくわからなくなる。それよりも中国の庶民を見てたら、それでいい。インテリを見ずにね。それが日本人には永久にわからないかもしれないけど、これがわからなかったら、日本は自滅するな。

いよいよ世界は普遍性を帯びてゆく。むろん一面では世界は逆に国家時代になってるけどね。小国がいっぱいできて。だけど、それは内在的に普遍性が進行しているわけだから。それがわからなかったら、やっぱり自滅するのと違うかしら。ほうぼうで嫌われてね。ジャカルタでも、バンコクでも、あらゆるところで嫌われると思う。

いつでも日本人が安心立命できて、いい気持ちになれるのは、(中略)自分に特殊ものに隠れていくときに、一番甘美になる。日本的回帰ってよくいうけど、年とったら日本的回帰になる。「ふるさとへ帰る六部の気の弱り」(江戸時代の川柳に、長年諸国を旅した六部も年老いて気が弱るとふるさと近くを回るようになったこと)というやつね。あれはいい川柳やと思うな。頑張って青年時代は普遍性に行こうと思ったけど、気が弱くて特殊性に入っていくわけでしょう。これが日本人全体のメンタリティ。これがある限りは日本はダメになると思う。普遍性をどうやって身につけるかっていったら、マルクスを読んだり、ヘーゲルを読んだり、フランス文学を読んだりすることによって、あるいはアメリカのモータリゼーションに憧れたり、そんなむずかしいことやらんでもいいんですよ。寝たり起きたりしてる中国人を見てたら、それでいい。隣におるんだから、そういう意味での普遍性で国家をつくろうとしてる人間たちが。

(中略)「住民」としての感覚で中国の住民を見ていたら、それでいい。「住民」ということ以外のレベルで、つまり民族論や国歌論だけのレベルで他の国をみると、ずっと失敗つづけてきたように、今後もそうなるな。あたりまえのことなんだけど、われわれ日本人にはむずかしいことなんです。

『古代中国の虚像と実像』

落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書 2009)を読む。
ちょうど授業で「鴻門之会」を扱っているので、教材研究として手に取ってみた。
夏王朝から秦崩壊後の楚漢戦争までは、正統な歴史書がない頃であり、そのため後年の『史記』や『春秋左氏伝』などの虚飾された「人間ドラマ」を元に歴史が「作られている」と喝破する。
「酒池肉林」で有名な殷の紂王や、秦の始皇帝の人間像、管仲と鮑叔の仲、合従連衡の縦横家、その他史話に出てくる興味深いエピソードがことごとく「創作」であると
述べる。
著者はあとがきの中で次のように語っている。

本書は、虚像をできるだけ排し、古代中国の実像を提示することを試みたが、どちらかと言えば普通の古代社会でありあまり面白味のない歴史だったかもしれない。しかし、それが科学としての歴史学なのだと思う。歴史上の有名人であっても、やはり我々と同じ人間である。過去の人物や社会を理想化しないことが科学的な視点であり、「普通さ」や「面白くないこと」こそがむしろ重要なのではないか。