『知ってる古文の知らない魅力』

鈴木健一『知ってる古文の知らない魅力』(講談社現代新書 2006)を読む。
『源氏』や『平家』『枕草子』『おくのほそ道』『竹取』『伊勢』の古文教材を代表する6作品をとり上げ、有名作品の特徴的な場面や表現がそれ以前の作品の影響を受けていたり、また以後に影響を与えていたりしている例を丁寧に紹介している。徒然草の有名な冒頭部が『和泉式部正集』や『堤中納言物語』の文そっくりであったり、『平家物語』のあの冒頭部も法然が作った『涅槃和讃』にそのままの言葉があったりという事実を初めて知った。

著者は〈共同性〉と〈個性〉というタームを用いながら、有名作品においても、その作品以前にあった類型や言い回しをとりいれることにより、重層的な世界観が表現されていると述べる。

「和泉式部集」
つれづれなりし折、よしなしごとにおぼえし事、世の中にあらまほしきこと。 いとつれづれなる夕暮れに、端に臥して、前なる前栽どもを、唯に見るよりはとて、物に書きつけたれば、いとあやしうこそ見ゆれ。さばれ人やは見る(後略)。

「堤中納言物語」
つれづれに侍るままに、よしなしごとども書きつくるなり。

「讃岐典侍日記」
つれづれなるままによしなし物語、昔今のこと、語り聞かせ給ひしをり、……

また、あとがきの文章で、本論とは少し文脈が異なるのだが、現在の私の職場の現状を評しているような一節があったので引用してみたい。

昔、誰かの文章を読んでいて、学校というのは「空間」ではなくて「時間」なのだと書かれてあって、いたく感心したことがあります。ある一定期間、そのキャンパスに在籍し、楽しく勉強したり遊んだりしたという記憶は、その人がそこから去った後も、その人の(そしてその人の友人や私の)脳裏に思い出として残り続けるでしょう。私自身、小学校から大学まで過ごした学校の校舎はほとんど建て替えられていますが、思い出すのは昔の校舎での先生や同級生とのやりとりです。かりに校舎が残っていたとしても、すでにあの時の先生や同級生はそこにはいません。そういう意味でも、学校は「時間」であるわけです。
このことをもっと広い意味で一般化して言い換えると、ある記憶や思い出を共有することによって、人と人がつながっている、ということになります。
そのような共有の感覚を、さらに長い時間をかけて熟成させたものが、本書で繰り返し述べてきた〈古典文学における共同性〉です。この

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください