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『あぁ、監督』

野村克也『あぁ、監督:名将、奇将、珍将』(角川Oneテーマ21 2009)を読む。
「指導者論」についてまとめようと思い手にとってみた。印象に残った内容を引用してみたい。

中国のことわざにこういうものがある。
財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上とする。
財産を残すより、もう一方で人を残せば業績も財産もついてくるという意味だろう。業績を残すより、人を残すことこそが、その人間の価値を決めるという意味であろう。プロ野球の監督も同じだ。どれだけ人材を育てたか—それこそが「真の名監督」であるか否かをはかる基準であり、最大の条件であると私は思うのである。
ただし、私のいう「人材を育てる」とは、たんに「野球選手として一人前にした」という意味だけではない。技術的に大成させたことが、必ずしも「人を遺した」こととイコールではない。
「野球選手である前に、人間として一流」といえる人材を育成したかどうかが問われるのである。
その意味で、成績を残した監督が必ずしも名監督とはいえないし、たとえ成績的にはそれほどの実績を残していなくとも「名監督」と呼べる人はいると思うのだ。
(中略)
では、野球選手になぜ人間教育が大切なのか。
「人間的成長なくして技術的進歩なし」—私はいつも選手にそういっている。仕事と人生を切り離して考えることはできない。仕事を通じて人間は形成される。仕事を通じて人間は成長し、成長した人間が仕事を通じて世のため人のために報いていく。それが人生であり、人がこの生を受けることの意味だ。すなわち人生とは「人と生まれる」「人として生きる」「人として生かされる」と私は理解している。
そのように考えれば、当然野球に対する取り組み方が変わってくる。取り組みが変われば、おのずと結果も変わってくる。それが、私が「人間とはなんのために生きるのか」とたびたび選手に問いかけ、プロセスを重視する理由である。
それに、野球選手は引退後の人生の方が長い。したがって、引退後の人生を視野に入れながら日々を送る必要がある。そのときになってあわてても遅いのだ。ところが、選手はそれがわからない。解雇されてはじめて、「なぜ引退後のことを考えなかったのか」と後悔する選手を私は何人も見てきた。
現役のころから副業に精を出せといっているのではもちろんない。野球以外の世界に放り出されても生きていけるだけの常識と覚悟を身につけておくことが大切だというのである。そして、そのときなによりも問われるのは人間性なのだ。
その人間の価値を決めるのは自分ではない。他人によってなされるものであり、他人が下した評価こそが正しい。誰でも自分に対しての評価は甘くなるからだ。そして、人間はひとりでは生きてはいけない。
とすれば、謙虚さや素直さが求められるのは当然のことだ。ところが、たいがいの選手は社会にふれてないから、しかも甘やかされてきているから、そうしたことに気がつかない。であるならば、監督は選手たちにそれを教えなければならないのである。「人づくり」が監督の仕事でもっとも大事だというのは、そういう理由なのだ。その意味で、いくら野球の技術や知識にすぐれていても、人間教育ができなければ「名監督」と私は呼びたくはない。

プロ野球は、たしかに「勝てば官軍」の世界。結果がすべてである。多くの監督が選手をほめておだてて気分よくプレーさせたり、他球団の有力選手をかき集めたりするのは、ここにも理由があり、だから、極端にいえば私生活がどうであろうとグラウンドで成績を残せば選手は何もいわれない。
しかし、結果の裏側にはプロセスがある。よい結果というものは、きちんとしたプロセスを経るからこそ生まれると私は信じている。よい結果を出すためには、どういうプロセスをたどるかが非常に重要だと考えている。きちんとしたプロセスを経ないで生まれた結果は、それが数字的にどれだけすばらしいとしても、たまたまだ。ほんとうの実力ではない。
「鈍感は最大の罪」と私はしばしば口にする。感じる力を持っていなければ、眠っている素質を開花させることはできないし、技術的にも精神的にもそれ以上の成長はありえない。だから「感性を磨け」と常日頃から選手にもいい聞かせているのだが、感性にすぐれた選手は必ず伸びる。これは私の長年の監督生活でわかった真理である。
これは監督の立場から考えれば、いかに「気づかせるか」が大切だということになる。すべて教えてしまっては、選手は気づかないし、気づく力を獲得することもできない。「監督は気づかせ屋」であると私がいっているのは、ここに理由がある。
監督は、ヒントを与え、選手が自分自身で気づくよう仕向けなくてはならない。そうすることで「何が悪いのか」選手は考える。「どうすればよくなるのだろう」と試行錯誤する。その過程で技術が進歩し、人間としても成長していくのである。まさしく「人はプロセスでつくられる」のだ。

『けちゃっぷ』

第45回文藝賞受賞作、喜多ふあり『けちゃっぷ』(河出書房新社 2008)を読む。
ケータイのブログでしか会話できない引きこもりの女性と、ブログのコメントで知り合った「空気読み過ぎ」な男子大学生の奇妙なやり取りの小説である。
主人公の女性がケータイ片手にブログに妄想やら感想、欲求を実況生中継で書き込んでいくことでコミュニケーションをとるという設定の実験的な内容である。現実世界に対応できずネットに依存していく若者や、不安定な人間関係などがストーリーの背景となっているのだが、話の展開にすっと入り込むことができなかった。

『春秋の色』

宮城谷昌光『春秋の色』(講談社 1994)を読む。
タイトルが興味深かったので手に取ってみたが、春秋時代を生きた人物伝ではなく、作者の経歴や近況報告、古典にまつわる蘊蓄話などの関するエッセーであった。
ちょうど1991年に直木賞を受賞した直後から1年くらいの間にあちこちの新聞や雑誌に掲載されたコラムがまとめられている。一つ一つの話は宮城谷氏の素の姿がみえて面白いのだが、直木賞受賞の経緯や大学時分の先生の話など同じような内容の話が繰り返され、後半は興味を失ってしまった。
編集側の旬なうちに直木賞作家の名前で売ってしまおうという思惑が見え隠れする作品であった。

『プロのように撮れるデジカメ写真技術』

堀口隆生『プロのように撮れるデジカメ写真技術』(三笠書房 2004)を読む。
技術進歩の著しいデジカメに関する数年前の入門書である。古すぎるかなと思ったが、かえってデジカメならではの特徴がはっきり書かれていて分かりやすかった。
ホワイトバランスや自動測光の仕組み、オートフォーカス、ストロボなど、デジカメが自動的にすべて計算してくれるのだが、その特性を分かった上で使うと、プロとまではいかないが、「狙い」が表現できるようになる。
特に、ホワイトバランスの設定が成功例、失敗例が並べられて分かりやすかった。

『ばかもの』

絲山秋子『ばかもの』(新潮文庫 2008)を読む。
久しぶりに小説を手に取ったためか、貪るように読み終えた。
雑誌「新潮」平成20年1月号〜8月号に連載された小説である。冒頭は官能小説のようなシーンから始まる。群馬県内の名もない大学を卒業し、やがて「行き場」を失ってしまい、アルコール依存症に陥ってしまう青年の心模様が克明に描かれる。酩酊しながら町を彷徨い歩く青年を通して、「行き場」のない自分探しという泥沼にハマってしまうロスジェネ世代の鬱屈した感情が伝わってくる。後半は、太宰治の『人間失格』のような疲れ果てた恋愛ストーリーへと変わっていく。
短い小説であるが、絲山さんの本領が発揮されたような内容で面白かった。