読書」カテゴリーアーカイブ

『グリーン・レクイエム』

新井素子『グリーン・レクエイム』(講談社 1990)を読む。
本日子どもを連れて春日部図書館へ出かけた。案の定、子ども3人が大騒ぎをしでかし、追い立てるように出ようとした出口脇のリサイクルコーナーにあった本である。
1980年に書かれた本であるが、続編と合わせて装丁を変えて出版されたSF小説である。設定が面白くて引き込まれるように一気に読んでしまった。
あとがきが長いが、久石譲作曲の主題曲「Green Requiem」についての逸話が興味深かった。私自身が高校のときに聞いた際のCDの記憶がよみがえってきた。

『「通貨」を知れば世界が読める』

浜矩子『「通貨」を知れば世界が読める:“1ドル50円時代”は何をもたらすのか?』(PHPビジネス新書 2011)を読む。
タイトルはいささか刺激的であるが、大英帝国からパックス・アメリカーナの時代の移り変わりを通貨政策という観点で歴史的に論じた上で、「ユーロ」の難しさ、次の基軸通貨の危うさを指摘した上で、朧げながらも今後のあるべき通貨の未来像を指し示している。かなり踏み込んだ論調で、著者の心意気がよく伝わってきた。
著者は、ベルギーの経済学者ロバート・トリフィンの「基軸通貨は希少性と流動性の両方を満たすことは難しい」という指摘を踏まえ、基軸通貨に頼ろうとすることそのものの危険性を述べる。そして、ドル安を助けるための日銀の量的緩和が生み出した「円・キャリートレード」がアメリカのブラック・マンデーを誤った形で助け、アジアの経済危機をもたらし、現在でも新興国の経済不安の少なくない原因となっていると説明する。最後に国域を越えて流動する単一通貨の問題点を押さえた上で、地球全体の統一通貨、国単位の通貨、そして地域通貨と3種類の通貨が併用される「3D」的な共存時代を唱える。
受験参考書のように説明が分かりやすい上に、主張や批判が研ぎすまされているので、読んでいて楽しかった。

『野村の「眼」』

野村克也『野村の「眼」:弱者の戦い』(KKベストセラーズ 2008)を読む
指導者論のレポートは既に郵送してしまったのだが、折角買ったので読んでみた。
楽天監督3年目を迎える年に書かれた本である。
これまで読んできた著書と内容的には大差のないものであった。
あとがきのなかで、野村氏は次のように述べる。

私は「自己コントロールとは、欲から入っていかに欲から離れるか」が最重要だと信じる。これが勝負事における最大のテーマだと考えている。絶好球が来たと思って、ほんの0.何秒あせってバットを振り、チャンスをふいにする。最後はストレートで格好よく三振を取りたいと欲を出して痛打を浴びる。欲から入って欲を離れることができず、失敗した例をこれまでにも数多く見てきた。
だからといって、欲望そのものがなくなっては進歩はできない。では、進歩とは何か。私は自問自答する。
人間、沈まないとジャンプはできない——それが謙虚さであり、素直さである。それがなければ進歩はない。——すなわち考える力、感じる力、備える力に発展していく基である。傲慢な人間には、現状維持も伸び率もない。ただ下降線を辿っていくのみである。そしてどんどん底に落ちきって、気付くのである。人間の悲しい性である。
“進むときは上を向いて進み、暮らすときは下を向いて暮らせ”
私が七十二年の人生から得た教訓である。

『ずばりわかる!これが日本の問題点』

池上彰『ずばりわかる!これが日本の問題点:ニュースの賢い読み方』(青春出版社 2005)を読む。
本棚に長い間眠っていた本であるが、経済系の小論文指導の一助として手に取ったみた。
テレビ画面では明確かつ完結にニュースを解説する姿が印象的であるが、文章だと論の進め方に少々粗さが目立つ。
「少子高齢化社会にも利点がある」とし、子どもの数が減ることで、親の持っている住宅が余り、住宅不足が解消し、都会の土地の値段も下がる。そして都会に人が戻ってきて、都会の夜が活性化し、さらに文化的なシティライフが送れるとあるのだが、あまりの想像力の逞しさに首を傾げたくなる。
また、2005年小泉内閣時代に書かれた本であるが、「小泉-竹中」の「構造改革路線」をそっくりそのまま礼賛するような主張が多い。福沢諭吉の偉業を取り上げるなど、自身の母校でもある慶応大学の人脈を重んじているのであろうか。
著者には失礼な話であるが、テレビ的な「分かりやすさ」の危険性がよく分かった気がする。

『ノムダス 勝者の資格』

野村克也『ノムダス 勝者の資格』(1995 ニッポン放送)を読む。
1994年から95年にかけてニッポン放送の番組で話した内容に加筆された本である。
印象に残った一節を引用してみたい。

(ドラフト会議で子どもの入団が決まった親が監督に挨拶をしないことに触れて)
そうではなく、倅が所属し、世話になっている組織の長ひと声かけ、「どうぞよろしく」というのは、ごく自然な親の情だと思うのだ。
いつからこんなにダメになってしまったのだろう。ひょっとすると、ドラフトというものを自分寄りに解釈して、「大事な息子を入団させてやるのだから、そっちから挨拶にくるべき」ぐらいに考えているのだろうか。
なぜ、こんな一見関係なさそうなことを書くのかというと、実は関係が大ありだからである。
いうまでもなく挨拶は人間らしく生きる基本の心である。親に挨拶の心がないと、それは必らず子どもにも現われる。少年野球でもそれが如実に現われている。
挨拶できない若者は、気配り、目配りに欠け、他人の痛みがわからない。僚友にもちょっとした気遣いを怠ったためにチームが負ける。そうしたことが勝負の世界では日常茶飯事にあるのだ。
だから私は、Aという選手は「おぅ…す」と省略形で挨拶する。Bは「おはようございます」といい、Cは「……」とゴニョゴニョするだけ、という具合に、その人間の挨拶力をきちっと見ている。
『呉子』に「礼」「義」「恥」を説いた部分がある。兵隊を教育する場合、戦術の前に、「礼」「義」「恥」を教えよ。これを理解すれば、自分から進んで戦術を身につけていくものだ。
また、プレーそのものではなく、プレーをする姿勢を見る。
例えば、Dという選手は「捕れない球は追わない」タイプ。対してEは「捕れないかもしれないが追ってみる」タイプ。D選手はとても合理的に見える。しかし、この手のタイプは「目でしかモノを見ない」という冷めた性格をつくってしまう。このタイプ、目標や願望はまず達成できない。一見非合理的と映るけれどもEのほうが目標を達成しやすいし、チームの中で信頼を得ていく。
(中略)監督はこのように、プレーと、プレー以外のすべてを見て判断すべき責務を負っている。トンボのような複眼が必要なのである。