岩崎武雄『哲学のすすめ』(講談社現代新書 1966)を半分ほど読む。
平明な文章で説明する「哲学入門書」という宣伝であるが、頭の中にすーっと文章が入って来ず、途中で諦めてしまった。私の思考力が追いつかなかった。
前半部では物事の原理的な価値判断は哲学が担い、具体的な価値判断は科学が担うということが述べられていた。科学と哲学は言わば建築物であり、哲学という原理を判断する土台部分と、科学という事例の積み上げによってもたらされる見地の上物部分のバランスによってなりたっているものである。哲学が科学を冒してはいけないし、また科学が哲学を冒してもいけない。その両者の見極めが大切だと述べる。
また、得てして若い人は原理的な価値判断や高い目標にのみ捉われ、現実的な事実に基づいた判断を疎かにしがちであり、また高齢の人は現実の状況のみ顧慮しがちで、結局何の理想もなしに現実に順応する態度になりがちであるという指摘は興味深かった。
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『夢を釣る』
大庭みな子『夢を釣る』(講談社 1983)を読む。
1975年から1982年の8年間の間に文学雑誌や文学全集に寄せたエッセーがまとめられている。
1982年6月の『群像』に掲載された「呼び出すほら穴」という文章の一節が印象に残ったので引用してみたい。
(夫の仕事の都合で30代の10年間を言葉の通じないアラスカで過ごした経験に触れて)
その十年間は、私の人間に対する柔軟性と、孤独に耐える力を養ってくれてような気がする。途方もない想像力を孤独にひろげて深める持続力を幾分か得た。外国だったし、余りにも異質なものに囲まれていたから、想像力がなければ、生存が不可能だということもあった。また、その想像力が間違っている場合、ひどい困難に陥ることで、自分の誤りを認めざるを得ないということもあった。
比較的同質なものに囲まれていると、日常生活で、想像力がなくてもあまり困らないので、想像力が貧しくなる。そして、そういう癖がついてしまうと、異質なものに入っていくのがだんだん億劫になってしまう。
「想像力が貧しくなると異質なものに入っていくのが億劫になる」という言葉が正鵠を得ていると思う。想像力を逞しくしておかないと、人間は他人の意見や「常識」なるものに流され、自分の近眼な目に見えるものだけで物事を捉えてしまうようになる。そうすると、目に見えない他人のことが分からなくなり、そして無関心になる。さらには、自分の本質や本音すら分からなくなってしまう。
現在の自分が
1975年9月の潮刊『人間の世紀第5巻・政治と人間』に所収された「異質なもの、文学と政治」の中で大庭さんは次のように述べる。
私にとって文学とは、あるひとつの人格内部にかかわるものであり、結果的に他の人間とのつながりを引き起こすものであるにしても、現在の状況における社会的人間たちをある妥協のもとに、どうにかとりまとめるといった仕事とは本質的に異質の、人間内部の一種の「夢」である。
(中略)
「文学」とは言語をもって人間の願望と夢を語る虚構の世界であり、けっして社会科学的な考察ではない。もちろん、ある作品の中で社会科学的考察や、政治的見解や、哲学的論理の究明が述べられていることはあるかもしれないが、それはあくまでその文学の本質的な部分ではない。文学とは「世界」の中で戸惑う人間の内面の一種不可思議な感動を、言語によって表現する芸術であり、その根底にあるものは音楽や絵画や舞踊、演劇などを生み出すと同じ、ほとんど原始的な、官能的詩神なのである。
文学は合理的なものを好まない。というよりは合理的なものを信用しない。不確定性原理とか、確率とは偶然とかいったものにみちみちている人生に対する絶望と、懐疑から生まれた人間の嘆きといったものが文学である。無数の個を全体として取り扱う平均値、などということは文学にとっては興味のないことなのだ。文学とは社会という性能のよい機会を組み立てる、規格に合った部分品にはけっしてなれない人間の心である。そして、それ故にこそ文学は全ての人間にとって思いあたるふしのある嘆きでもあるのだ。
大庭さんは、「政治と文学
『始皇帝を撃て』
桐谷正『始皇帝を撃て』(海越出版社 1992)を読む。
戦国時代のテロリズムに関する話である。秦の始皇帝を匕首で狙い撃ちにする燕の軽舸にまつわる史記列伝を基にした小説である。このエピソードは「風蕭々として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず」の詩で有名であるが、「士」に対する一途な思いが感じられた。読みやすい文体で一気に読んでしまった。
『テロリズムと報道』
特定秘密保護法案に関する新聞記事を読んでいたところ、社説に、ポーツマス条約においてロシアから賠償金が得られなかったことで国民の不満が高まり、東京の日比谷公園で行われた集会をきっかけに各地で騒動が起った一連の日比谷焼打事件は、日露戦争において政府が戦争の実態を隠して「連戦連勝」とアピールしたことが原因であるとの作家吉村氏の言葉を紹介していた。
政府とマスメディアの関係について調べてみたいと思い本棚を漁ったところ、学生時代に大学近くの古本で買ったと記憶している、現代ジャーナリズムを考える会・編『テロリズムと報道』(現代書館 1996)という本を見つけて駆け足で卒読した。
一連のオウム真理教事件の報道を巡って、テレビキャスターや新聞記者、弁護士たちによる過剰報道への検証と、あるべきジャーナリズムへの提言となっている。坂本弁護士一家失踪事件や松本サリン事件など警察の間違ったリーク情報に流され、他社との競争の中で犯人を仕立て上げていく過程が丁寧に分析されている。またTBSのビデオ問題についても触れられ、監督官庁の行き過ぎた指導が報道の自由をゆがめてしまったのではという危惧も出されている。
しかし、テロリズムを報道する側の倫理や使命、また人権派との微妙な距離感といった話が中心で、現在政府が進めている恣意的な認定によるテロなどの情報の永久の秘密化といったぶっとんだ内容に関するような話は全くなかった。十数年前には信じられないようなSF的世界に我々は足を踏み込んでいるということであろうか。
『下流社会 第3章』
三浦展『下流社会 第3章:オヤジ系女子の時代』(光文社新書 2011)を読む。
20〜30代の女性を大きく5つのクラスタに分け、それぞれの生活パターンや趣味から消費動向を探るという内容である。
これまで女性の消費傾向は年齢、未婚・既婚、有職・無職といったカテゴリーのみで分類されてきたが、年収という階層意識ではっきりとした違いが出る男性とは異なり、女性は近年そうした分類ではっきりとした違いが分かりにくくなっている。著者は女性も男性と同様に趣味によって分けることで、ファッションから化粧品、雑誌、休日の過ごし方といった生活の違いが分かると述べる。
この本では若い女性を「文化系」「アウトドア系」「OL系」「手作り系」「オタク系」の5つに分類し、それぞれの消費動向をアンケート調査に基づいて分析している。以前読んだ三浦氏の『下流社会』や『ファスト風土化する日本』に比べ、いささか結論はありきたりなものになっており、新書としてまとまめるのは無理があったのでは。
