読書」カテゴリーアーカイブ

『TVピープル』

村上春樹短編集『TVピープル』(1990 講談社)を読む。
表題作の他、「飛行機』『我らの時代のフォークロア』『加納クレタ』『ゾンビ』『眠り』の5作が収められている。
どの作品も漱石の夢十夜のような脈絡もない作品で、感想や疑問も差し挟む余地のないままに展開していく不思議な内容であった。

『「個と公」論』

小林よしのり『「個と公」論』(幻冬舎 2000)を半分強ほど読む。
1990年代を知りたいと思い手にとってみた。小林氏の上梓した『戦争論』に寄せられた批判に、著者自身が一つ一つ丁寧に答えるという内容なのだが、全てが論点ずらしと揚げ足とり、個人攻撃に終始しており、あまりに不快になり読むのをやめた。

『リアルのゆくえ:おたく/オタクはどう生きるか』

大塚英志・東浩紀『リアルのゆくえ:おたく/オタクはどう生きるか』(講談社現代新書 2008)を読む。
1990年代論が気になったので、90年代に学生時代を送った世代を代表するであろう東浩紀氏の著作を手に取ってみた。段階の次の世代にあたる1958年生まれの大塚英志神戸芸術工科大学教授と、団塊ジュニア世代にあたる1971生まれの東浩紀元早稲田大学教授の対談集である。2001年、2002年、2007年、2008年の4回にわたる対談で、大塚氏と東氏の考え方の違い、引いては世代の違いが浮き彫りになっていく。大塚氏は、団塊の世代が国家と対立したような分かりやすい時代ではないという認識に立ちつつも、「公共」に対する責任や、他者に対する関わりの積極的な意義を滔々と論じる。一方で、ポストモダニストの東氏はインターネットの発達により、全てがサブカル化し相対化された現在、批評家として言説に責任を持つことは難しく、「ぬるぬる消費者をやって、小さくハッピーに生きるべき」であるというスタンスをとる。特に2007年の対談では、社会を良くしていくことに希望を見いだす大塚氏の、東氏に対するけんか腰の物言いがそのままに載録されている。

私自身は東氏と同じ世代に属するのだが、大塚氏の考え方の方に頷くところが多かった。
また、東氏の権力とマーケティングの分析の話の中で、セキュリティーやマーケティングといった横文字の裏側で進む、情報統制や国民の動向管理といった話は興味深かった。一部引用してみたい。

近代というのはひとことで言えば、最終的な立法者、「大文字の主体」を想定して、その主体と最終的に向き合うことを目的として成長していく、という人間モデルを採用した時代なわけです。それに対してポストモダンというのは、もっと単純に、ただ規則だけが自動生成していくような世界を想定している。

(中略)また別の例を挙げますが、通信傍受法のときに朝日新聞の特集記事だと「権力は聞いている」という言い方をするわけです。これはつまり、「権力」という言葉でイメージされる官僚や政治家、警察が電話線の向こう側にいて、私たちのプライバシーを聞いているという発想です。
でも、デジタル技術の恐ろしいところは、特定の個人を監視する点にではなく、莫大な情報をデータベースとして管理できることにある。そしてそういうタイプの匿名的な監視は、とうにTSUTAYAとかでやられている。

(中略)これは果たして「権力」なのか。あるレベルで見ると、ぼくの行動はすべて統計的に動かされている。でも別のレベルで見ると、ぼくはぼくで自分の意思で行動している。この両者は矛盾しないのであって、ポストモダンの権力というのは、政府ベースと民間ベースとを問わず、その隙間で動いてしまうんですよね。

(中略)権力とマーケティングの境界はますます曖昧になりつつある。マーケティング理論が匿名的で集団的な行動を記述する言語だったのに対して、法は個人に対して命令するものだった。しかし、同じ結果を達成するのであれば、マーケティング的に社会を動かしたほうがはるかに効率がよいし反発も買わない。そうした大きな流れがあって、その一つの流れが物語(イデオロギー)消費からデータベース消費への移行ですね。そして情報技術の進化がそれを後押ししている。

『原発労働』

日本弁護士連合会『原発労働』(岩波ブックレット 2011)を読む。
日弁連会長の宇都宮健児氏や日弁連貧困問題対策本部が中心となって、原発労働者の証言を踏まえて原発労働の問題点がまとめられている。
原発労働の現場では、被爆の問題に加え、下請け・孫請けによる給料のピンハネや、偽装請負などの間接雇用により雇用保険や社会保険がおざなりにされている問題が浮かび上がっている。個別原発労働特有の問題として片付けるのではなく、人間らしく働くという意味と意義が問われている。

『そして殺人者は野に放たれる』

第3回新潮ドキュメンタリー賞受賞作、日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫 2003)を読む。
2003年に新潮社より刊行された単行本の文庫化である。刑法39条が拡大的に解釈され、加害者の弁護側だけでなく、検察や司法も、意図的な残忍な殺人ですら無罪もしくは減刑を判じている実態を明らかにしている。
刑法39条は「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心身耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」とあり、元々は心神喪失者や心神耗弱者といった正常な判断ができない人たちの権利を守るための条文である。しかし、精神科医に委ねられた鑑定書がほぼ加害者の更生の可能性を抹殺しない内容となる以上、起訴して無罪判決になると困ってしまう検察や、医学に踏み込めない司法は、安易に心神喪失と正常の間の心神耗弱を持ち出して、刑の減軽を計ることで丸く収めようとする。しかし、そこには被害者や被害者の家族の気持ちは忖度されない。
非常に刺激的なタイトルであるが、重度の精神障害や知的障害の行為については配慮が必要であると明示しつつ、刑法39条を前にして思考停止状態に陥っている司法現場に痛烈な疑問を投げかけている。都合のいい事例ばかりが挙げられているが、刑法39条そのものの欠陥を指摘する熱意はよく伝わってきた。

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□ 日垣隆公式サイト「ガッキィファイター」