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『SLY』

吉本ばなな『SLY』(幻冬社 1996)を読む。
西村賢太氏の仄暗い小説を続けて読んだので、気分転換のつもりで手に取ってみた。
エジプトの取材旅行をもとにした、観光案内とも紀行文とも取れるような小説となっている。作者自身もあとがきの中で「風景にふらふらと流されてゆくだけのずるく切ないやり方しかできない人間たちの想いを小説にしました」と述べているように、薄い味付けの内容となっている。
途中、吉本ばななさんならでは感性あふれるというか、男性では絶対書けない一節が印象に残った。

 昔、妊娠したと思ったことがあった。うんと若い頃、喬と住んでいる頃だ。
 別に体調も悪くないのに、生理が来なかったのだ。それに顔が何だか優しくなった。
 相手は喬しか考えられなかったが、産めるわけがなかった。でもある真昼、いよいよ明日は病院に行こう、と思った瞬間、ものすごく困った…という気持ちを押しのけて突然に暴力的な喜びが私を襲った。
 本能が理性を打ちのめした瞬間だった。
 嬉しさが全身を貫き、息もできないほどだった。
 街を行く人々、誰も彼もが全員、この嬉しさの洗礼を経てこの世にいるのだと思うと不思議だった。
 そして「もしかすると私は今、ひとりではない、体の中にいる誰かとこの風景を見ているのだ。」と思った。
 結局、それから1週間後に生理が来てすべてが幻想だったことがわかったが、その時の感慨を忘れることはなかった。それで少しだけ、この世の仕組みがわかったような気がしたことも。

 

『歪んだ忌日』

西村賢太『歪んだ忌日』(新潮社 2013)を読む。
表題作のほか、雑誌「新潮」や「文學界」に掲載された『形影相弔』『青痣』『膣の復讐』『感傷凌轢』『跼蹐の門』の芥川賞受賞後に書かれた5編が収められている。芥川賞受賞作となった『苦役列車』に続く、北町貫太主人公の私小説となっている。家を出た15歳の頃や秋恵との同棲生活時分や別れた後の「慊い」生活を描く。
年の始まりから西村作品を続けて2冊読んだが、何かもうお腹いっぱいな感じである。

 

『寒灯』

西村賢太『寒灯』(新潮社 2011)を読む。
第144回芥川賞受賞の『苦役列車』に続く、作者を模した主人公「西村貫太」のその後を描く私小説である。表題作のほか、『陰雲晴れぬ』『肩先に花の香りを残す人』『腐泥の果実』の3編を収める。4編とも時間軸の繋がった連続小説となっており、駄々っ子で自分の思い通りにならないと苛立ちが昂じる扱いにくい性格の貫太と、貫太とは正反対の真っ当な感覚を持った同棲相手の秋恵との諍いを中心に話が進んでいく。
今回も「慊(あきたりな)い」という形容詞が連発される。

『世界一退屈な授業』

適菜収編『世界一退屈な授業』(星海社新書 2011)を読む。
内村鑑三、新渡戸稲造、福沢諭吉、柳田國男、西田幾多郎の5人の明治後半から大正期にかけての講演録をまとめている。
尻込みしてしまうような面々だが、現代語で注釈を入れて分かりやすい文体に書き直されており、気軽に読むことができた。ただし編者の上からの物言いが癪に触るが。

特に新渡戸稲造と柳田國男の講演内容が面白かった。1920〜30年代の講演出会ったが、現代でも当たり前のように通用する哲学や世界観を持っていたことに驚いた。新渡戸稲造は読書のあり方に触れ、良い文章には赤い線を引き、良い思想には青い線を引き、パラグラフごとに趣意を書き加えておく方法を指南する。柳田國男も『遠野物語』の印象が強く、民俗学に没頭した学徒という印象が強かったが、意外にも当時の世界情勢に通じており、西洋列強の進出の中で、オセアニアやアジア地域での独自の文化や文明を発見し、発信していくことが大事だと述べている。一部を引用しておきたい。

 日本は、国が近世化したのは最近で、今もって一つの村里、一つの家のうちにさえ昔が共棲している。えらい速力をもって空に散じつつあるが、まだ民間芸術の花は萎まない。それを、その間に生まれた者が母語の親しい感覚をもって、学び知ることができる国である。
 ゆえに、単なる蒐集採録をもって能事了るとせず、集まった材料をしずかに書斎において整頓し、またその経験を携えてふたたび出て、捜索し、観測するならば、その収穫は当然に外国に倍加すべきで、ゆくゆくはひとり、同胞日本平民の前代について、より精確なる理解を得るにとどまらず、さらにこれを他の比隣民族の生活と比較して、のちはじめて日本人の極東、特に太平洋における地位、いわゆる有色人種の互いの関係などが、明白に誰にでもわかることであろう。
 (中略)小さな島々には助けに乏しい住民がいること、彼らを苦しめ滅ぼそうとする粗暴な文明力は、西から来ようとする東から来ようと、またわれわれの中から現れようと、かならず抑制しなければならないことを感じてくる。
また、これと同時に、民族の弱点がどこにあり、強味がいずれにあるかもわかって、国として結合しなければならない程度や方法も明らかになる。
 子弟同胞を本当に幸福にする手段も見出される。
 これを要するに、将来世界の日本人としての支度ができるのである。

『文系学部解体』

室井尚『文系学部解体』(角川新書 2015)を読む。
不幸にも今年の4月から募集停止となった横浜国立大学教育人間科学部の人間文化課程の課程長を務めていた著者が、文科省による一方的な教育学部のゼロ免課程廃止や文系学部の縮小の方針に対して、真っ向反対の声を挙げている。国立大学のことを中心に書いているのだが、高校現場にも通じるような話が多く、参考になるところが多かった。引用ばかりになるが、気になったところを写しておきたい。

著者は大学について次のように述べる。

 大学とは、20歳前後のこれからの社会を担う若い世代が4年間を過ごすきわめて貴重な学びの〈場〉であると思っている。もちろん、小学校・中学校などの諸島・中等教育も、思春期の時期を過ごす高校も大切なのであるが、それまで学習指導要領等によって文科省が決めた科目と単元を、ひたすら印刷機でプレスされるように頭の中に刷り込まれ、つめ込まれてきた「生徒」たちが、初めて自分の意志で世界を解釈し、生き方を模索し、学ぶことを選ぶ場所が大学ではないかと思うのだ。
その意味で大学とは、これまで閉ざされた環境の中で、限られた数の大人たち、同級生や上級生、下級生、テレビやインターネットなどのメディアを通して形成されてきた狭い世界のイメージをぶち壊し、これまで出会ったことのなかったような「変な大人たち」、自分の知らない世界を知っている友達、そしてこれまでそんな考え方があるとは知らなかった文学・芸術作品や哲学・文化理論、自然科学や社会科学を含めての学問にできるだけたくさん出会える場所でなくてはならないと思う。したがって、そこには自分がそれまで信じ込んできたような固定的な世界観をリセットさせ、世界を解釈するための遠近法が壊れるような体験が含まれていなければならない。

 

さらに、次のように続ける。

 吉岡洋氏(当時・情報科学芸術大学院大学教授)はRCサクセションの「ぼくの好きな先生」や「トランジスタ・ラジオ」を例に挙げて、受験にかかわらない美術の先生が職員室を嫌っていつも美術室でタバコを吸っていたとか、高校の授業をさぼって屋上で隠れてタバコを吸って空を見上げながら、ラジオでアメリカのポップ・ミュージックを聞いていたとかいう、プログラムから外れた「隙間」の空間が、大学においてもきわめて大切であるといっている。もちろん、こんなシステムから外れた空間をシステムの中に明示的につくり上げることはできないのだが、そういう余地を残しておかなければ大学は死滅するといっているように思われる。吉岡氏はただ単に国が押しつけた政策やプログラムに服従するだけの、自分の頭の中で何も考えないような「人材育成」だけを 重視する大学改革に反対しているのである。
文科省による一連の大学改革に一貫して欠けているのは、このような教員と学生との知的共同体の〈場〉としての大学なのではないだろうか? 「大学を出てから役に立つ知識やスキルを提供するサービス業」というような考え方では、大学の〈場〉としての豊かさは崩壊してしまう。「役に立つ」授業だけを提供すればいい、「役に立たない」授業はできるだけ廃止して、適当に教養科目を配置しておけばいいというような上からの管理運営しか考えない立場からの大学改革は大学の可能性を破壊してしまうように思うのだ。

 

また、当時神戸女学院大学にいた内田樹氏も、上記の吉岡氏の発言がなされた日本記号学会の第25回大会(2005年5月)の中で次のように述べている。

 学生はコンテンツだけではなく教師の声や表情やテンションも聞いています。こうしたノイズの部分にこそ大切な情報が含まれていると思います。そのことが数値化においては見逃されている。人間がある空間に、ある時間、同時に身を浸すことによって形成される何とも言葉にし難いものが有ります。こうした、隠れた要素こそが大学教育を支えていると私は思います。

 

著者の室井氏は、大学のあり方について次のように述べる。

 大学は既成の知識を若い世代に機械的に伝達するだけの場所ではないし、単位を集めて、いい成績を取って、有利な就職をするためのキャリア獲得の場所ではない。異なる世代の教員と学生が生身で向き合うことで、学生たちが当事者として、自らの全力で物事に立ち向かい成長していくような、そんな実践的な学びの場所でなくてはならない

 したがって、私は大学での対面・対話型の授業がなくなってはならないと考えている。放送大学とかインターネット授業とかe−ラーニングとか、ただ知識を伝達すればいいという意見には反対である。だから、大学は〈場〉でなくてはならない

 

最後に、大学を巡る国際的・歴史的・制度的な変遷について触れたのち、著者は次のようにまとめる。

 歴史を遡ってみると、大学は常に国家権力の強い支配と統制の下に置かれていたことがわかる。現在の大学改革も、国民国家の進展のためにすべてに奉仕させようとする戦前の教育体制に戻りつつあるのだと思うとより理解しやすくなる。現在の政府や指導者層の大多数が経済的発展と軍事的安全保障を一番の問題と考えているときに、大学がその目的に合わせて再編され、目的達成にはあまり役に立たない領域が削減されていく−単純に言ってしまえば、現在この国や世界中の大学で起きているのはそういうことなのである。ある意味で、現在の世界はもっと大きな歴史的な転換期に差し掛かっているのかもしれない。
だが、それと同時にこうした流れに対して、じっと立ち止まって「抵抗」できる場所があるとしたら、それもいまのところ「大学」以外にはありえないのではないかと強く思う。大学の役割は基本的には「無知との戦い」、あるいは「無思考との戦い」である。本当にこれでいいのかということを疑い、自分の頭の中で批判的に考え、行動する人々を育成し、社会的に送り出していくことである。
(中略)大学に本当に必要なのは「差異」と「多様性」である。自分とは異なる価値観や世界観、過去や遠い地域の文明や文化、人間の知性の奥深さや広がりを学ぶことによって、私たちは自分たちがいまどういう世界の中に生きているのかをよりよく知ることができる。そして、よりよく知るとは、つまりは人間としてよりよく生きるということでもある。このような差異と多様性に開かれた自由な知をこれからも大学の中で守って行かなくてならない。

 

また、入学式や卒業式などでの国旗の掲揚と国家の斉唱についても次のように語る。

 なぜ、明治13年に宮内省雅楽課が古今和歌集の短歌に曲をつけて、「天皇陛下奉祝の歌」として制定された歌が、いつまでも「国歌」でなくてはならないのか、またそれが公立学校や国立大学の入学・卒業式で義務化、もしくは準義務化されなければならないのか、だれも調べようともしない。そして、それを義務として受け入れるか受け入れないかだけが問題とされているような状態は、甚だしく歴史意識を欠落させていると言わざるをえない。
そもそも、他国の国歌が何であるかをみんな知っているのだろうか? アメリカ国歌やフランス国歌は耳に馴染みがあるかもしれない。しかし、イタリアやロシアや中国やインドネシアの国歌となるとどうだろう? それをわざわざ文科省が国立大学に「要請」しなくてはならないという理由はいったいどこにあるというのだろうか?
また何よりも、当時の小渕首相の答弁(「国旗及び国歌の強制ついてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生じることにはならないと考えております」平成11年6月29日、衆議院本会議議事録より抜粋)をなぜマスコミは今回伝えないのだろうか? 自民党政権がその基本的方針を変えてない限り、今回の下村大臣による「要請」は、この小渕首相の答弁と一致しているのではないだろうか? しかも、そのきっかけがその二か月ほど前の参議院本会議での松沢議員からの質問にあったことは明らかなので、下村大臣個人の思想に基づくきわめて恣意的で勢いまかせの「要請」であったとしか思えない。こんなことで各国立大学が自分たちのこれまでのやり方を変えるようなことがあるとすれば、それは完全におかしいと私は思う。単に文科省に隷属しますと言っているに等しいではないか。だいたい、最近はこれもまた政府の方針で留学生を大量に受け入れることになっている。彼らに対して無理やり君が代を歌わせたり、日の丸に対して起立させたりするのもどうなのだろう。まったく「おもてなし」の国らしくない、野蛮で一方的な押し付けにほかならないではないか。私ならそう思う。むしろ、日の丸だけではなくて万国旗を掲げてほしいものである。

 

個人情報保護法について、次のように述べる。

 大学では学籍番号が個人情報とされているために、レポートや小テストまでもが管理の対象とされ、勝手に処分したり家に持ち帰ったりしてはいけないということにされている。はっきり言って、不便この上ない。第一、なぜ学籍番号が漏らしてはいけない個人情報なのか、私にはいくら説明を聞いてもよくわからない。いまどき、学籍番号をIDに、生年月日をそのままパスワードや暗証番号にしている人なんているのだろうか? (中略)この法律が決まるまでは、みんながむしろ喜んで氏名や住所、電話番号をNTTの電話帳に公開していたはずなのに、だれももうそんなことを忘れてしまったかのように、「個人情報漏洩!」がまるで大犯罪でもあるかのように指弾されているのを見ていると、これまたどうかと思ってしまう。

 

また、ここ最近、各研究室に「エアコン・フィルター掃除確認」という書類が送られてくるようになり、エアコンを掃除した日付入りのチェックを付けてファイルを担当者に返送するといったような形式の雑務が増えてきたことに対して次のように語る。

 要するにきちんと管理していますよ、先生方にはちゃんと確認を取りましたよ、という形にしたいということはわかるのだが、こんな無駄な仕事を増やしていったい何の役に立つというのだろうか? これで光熱費がどれだけ浮くのかも一度も知られていないし、そもそもフィルター掃除は教員の仕事なのだろうか? 本当に全部のフィルターを自分で掃除している人なんてどれだけいるのだろうか? 面倒くさいからただチェックを入れているだけなのかどうか、どうやってわかるのだろう。ただ単に、形式的に全員からフィルター掃除をしたという言質だけを取っておいて、大学ではやるべきことをやっていますと言いたいだけなのではないか。
本当にしょうもない話なので、これだけならどうでもいいようなことなのだが、問題はこの手の調査が毎日のようにやってくることなのである。立場の弱い担当者に文句を言ってもかわいそうなだけなので、仕方なく毎日こういう書類作りにつきあっているのだが、このような「手続き型合理性」というようなものが、あらゆるところではびこるようになってきている。(中略)「手続き」だけをきちんとするために膨大な作業があらゆるところで発生しているのである。そして、それらが増えることはあってもけっして減ることはないのだ。

 

ここで著者のいう「手続き型合理性」という言葉が強く印象に残った。人的コストや全体の時間のロスは無視して、手続きのための書類や確認作業だけが合理化されるという不条理は、多くの現場でも見られることであろう。言い得て妙である。