『SLY』

吉本ばなな『SLY』(幻冬社 1996)を読む。
西村賢太氏の仄暗い小説を続けて読んだので、気分転換のつもりで手に取ってみた。
エジプトの取材旅行をもとにした、観光案内とも紀行文とも取れるような小説となっている。作者自身もあとがきの中で「風景にふらふらと流されてゆくだけのずるく切ないやり方しかできない人間たちの想いを小説にしました」と述べているように、薄い味付けの内容となっている。
途中、吉本ばななさんならでは感性あふれるというか、男性では絶対書けない一節が印象に残った。

 昔、妊娠したと思ったことがあった。うんと若い頃、喬と住んでいる頃だ。
 別に体調も悪くないのに、生理が来なかったのだ。それに顔が何だか優しくなった。
 相手は喬しか考えられなかったが、産めるわけがなかった。でもある真昼、いよいよ明日は病院に行こう、と思った瞬間、ものすごく困った…という気持ちを押しのけて突然に暴力的な喜びが私を襲った。
 本能が理性を打ちのめした瞬間だった。
 嬉しさが全身を貫き、息もできないほどだった。
 街を行く人々、誰も彼もが全員、この嬉しさの洗礼を経てこの世にいるのだと思うと不思議だった。
 そして「もしかすると私は今、ひとりではない、体の中にいる誰かとこの風景を見ているのだ。」と思った。
 結局、それから1週間後に生理が来てすべてが幻想だったことがわかったが、その時の感慨を忘れることはなかった。それで少しだけ、この世の仕組みがわかったような気がしたことも。