久野収『発言』(晶文社,1987)を3分の1ほど読む。
著者の久野氏は1910年生まれで、27歳のときに治安維持法で逮捕されている。特定の政党や党派に属することなく、『思想の科学』の編集長やベ平連の思想的指導者として活躍されていた。1993年には現在も刊行されている『週刊金曜日』の創刊にも関わり、亡くなるまで編集委員を務めている。
資本主義vs共産主義や右翼vs左翼といったイデオロギーとは一線を画し、市民という立場で「市民的自由」や「市民社会」の実現について提言している。また、1980年代、レーガンや中曽根時代に持ち上がった戦争問題について次のように述べる。40年前に書かれたものとは思えないほど、現在のマスコミやSNSで議論されている「戦争」について言い当てている。
それと、戦争ブームを支えていくもう一つの要素は、やはりゲームの技術と理論の面白さでしょうね。もちろん、ゲームは戦争だけに限られるものじゃなくて、スポーツや娯楽のようなものにもいろいろな形で現われるけれど、このゲームに人間がものすごくとらわれるというのは一体人間のどういう本性なのか、という問題も、まだ解かれていない。だから、ゲームの技術と理論が面白くてゲームを愛好するのが、戦争を愛好していると言えるか。戦争とゲームとのあいだには非常に深い共通の根があるけれど、必ずしもこの二つは同じものじゃない。ぼくはいまの連中が愛好しているのはゲームであって、そのゲームがたまたま”戦争”のゲームだったという結果じゃないかという気がする。戦争の体験がないから、それもゲームの一種として楽しんでしまえるという段階にあるんじゃないかと思う。
