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『心がぽかぽかする本』

和田誠編『心がぽかぽかする本』(NTT出版 1989)を読む。
1986年と87年に公募された「NTTふれあいトーク大賞」に入選した短編の少しほっこりするショートショート作品が掲載されている。間違い電話やいたずら電話、恥ずかしくなるほどの勘違いから生まれる人間性がテーマとなっている。
つい最近の本なのに、インターネットもスマホもない時代の感覚や人間関係が表現されていたように思う。

『子供誌』

高田宏『子供誌』(新潮社 1993)をパラパラと読む。
著者は1932年生まれの昭和一桁世代の雑誌編集者・随筆家である。その著者が自身の子供時代や世界の子供を巡る社会状況、子供の視点で描かれた童話や文学について縦横無尽に語る。
あとがきが名文っぽかったので引用してみたい。

ぼくたちは、子供から大人へと上昇してきたのだろうか。それとも、子供から大人へと堕ちてきたのだろうか。答はむつかしい。
ただ言えることは、大人になるほど、かつて子供であったことを忘れがちになるということだ。
ぼくたちは誰でも子供であった。その子供は消えてしまったのだろうか。ぼくには、そうは思えない。大人のなかに「内なる子供」が眠っているはずと思う。もし、そんなことはないと言われると、とまどう、どころかひどく不安だ。子供であった自分と大人になった自分とが、全くの別人だとすると、ぼくとはいったい何者なのか。(中略)

大人はしばしば、金銭や権力や名声にあこがれるものだが、子供のなかにあるのはそういうものではなくて、生きることそのものへのあこがれではないだろうか。それはたぶん、すべての生きものと共通するものだ「内なる子供」は、ぼくたちの「内なる自然」だろう。
高度に組織化された人間社会に適合して生きるには、それだけでは足りないのだが、しかし、「内なる子供」「内なる自然」を排除しきって生きるのは、不健全だろうという気がする。そんなことをしたら、大人であることはすなわち病者である、ということになってしまうのではないか。

『あたく史 外伝』

小沢昭一『あたく史 外伝』(新潮社 2002)をパラパラと読む。
10年ほど前に亡くなった俳優小沢昭一さんのエッセー集である。著者の名前だけはTBSラジオの番組で知っていた。軽妙な出囃子の音楽と語り口が印象に残っている。Wikipediaで調べたところ、小沢さんは40歳の声を聞いてから早稲田大学演劇科の大学院に特別入学し、芸能史の研究を5年間続けたとのこと。

『十六歳のギリシア巡礼記』

二田原阿里沙『十六歳のギリシア巡礼記』(筑摩書房 1987)をパラパラと読む。
タイトル通り、執筆時玉川学園高等部に在籍していた高校生の著書である。彫刻家の父と一緒にギリシアの遺跡や彫像を巡る10日余りの旅日記である。
亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を思わせるような、老成した文章で、ギリシア遺跡から触発された様々な思いが綴られている。もしこれが本当に女子高校生が一人で書いたならば、平野啓一郎もびっくりの逸材である。残念なことに、この本以降はイタリア語会話の本を最後に筆を置いている。

内容はあまり入ってこなかったが、ギリシア遺跡が石灰岩で白く輝いていることだけは白黒の写真からもよく分かった。

『立松和平の実りの旅』

文・立松和平、写真・山城寿美雄『立松和平の実りの旅』(PHP研究所 1993)を読む。
著者曰く、「一癖も二癖もある」日本各地の作物、神奈川の落花生、熊本の蓮根、群馬の蒟蒻、徳島の筍、静岡の苺、沖縄の南瓜、宮崎の日向夏、山梨の桜桃、鳥取の辣韮、栃木の干瓢、北海道の玉蜀黍、青森の林檎の収穫の様子が写真で紹介されている。
立松和平のブランドを借りたような内容で、文章はほとんどなく、日本各地の観光地も含めた写真がメインとなっている。