『子供誌』

高田宏『子供誌』(新潮社 1993)をパラパラと読む。
著者は1932年生まれの昭和一桁世代の雑誌編集者・随筆家である。その著者が自身の子供時代や世界の子供を巡る社会状況、子供の視点で描かれた童話や文学について縦横無尽に語る。
あとがきが名文っぽかったので引用してみたい。

ぼくたちは、子供から大人へと上昇してきたのだろうか。それとも、子供から大人へと堕ちてきたのだろうか。答はむつかしい。
ただ言えることは、大人になるほど、かつて子供であったことを忘れがちになるということだ。
ぼくたちは誰でも子供であった。その子供は消えてしまったのだろうか。ぼくには、そうは思えない。大人のなかに「内なる子供」が眠っているはずと思う。もし、そんなことはないと言われると、とまどう、どころかひどく不安だ。子供であった自分と大人になった自分とが、全くの別人だとすると、ぼくとはいったい何者なのか。(中略)

大人はしばしば、金銭や権力や名声にあこがれるものだが、子供のなかにあるのはそういうものではなくて、生きることそのものへのあこがれではないだろうか。それはたぶん、すべての生きものと共通するものだ「内なる子供」は、ぼくたちの「内なる自然」だろう。
高度に組織化された人間社会に適合して生きるには、それだけでは足りないのだが、しかし、「内なる子供」「内なる自然」を排除しきって生きるのは、不健全だろうという気がする。そんなことをしたら、大人であることはすなわち病者である、ということになってしまうのではないか。