投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『二十歳の原点』〜現在へ

日常生活に去来する様々な雑感を今一度客体視する必要がある。
インターネットの普及で感情的な直接表現が幅をきかせ、自分で自分の感情をコントロール出来ない時代に我々は入ってきている。何気ない自分の感情を吐露することで、自らに在する差別や汚濁を見つめ直していきたい。
もうすでに30数年前、立命館大学の学生であった高野悦子さんの日記(『二十歳の原点』)から引用してみたい。

このノートを書くことの意味ーー
これまでは、このノートこそ唯一の私であると思っていたから、誰かにこれをみせ、すべてみてもらって安楽を得ようかと、何度か思った。しかし、今日ぼんやりとしていたとき、このノートを燃やそうという考えが浮かんだ。すべてを忘却の彼方へ追いやろうとした。以前には、燃やしてしまったら私の存在が一切なくなってしまうようで、恐ろしくて、こんな考えは思いつかなかった。
現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。
このノートが私であるということは一面真実である。このノートがもつ真実は、真白な横線の上に私のなげかけた言葉が集約的に私を語っているからである。それは真の自己に近いものとなっているにちがいない。言葉は書いた瞬間に過去のものとなっている。それがそれとして意味をもつのは、現在に連なっているからであるが、「現在の私」は絶えず変化しつつ現在の中、未来の中にあるのだ。

彼女はこの4日後に鉄道自殺により尊い命を落としている。彼女の示唆するところの現在を規定する過去への視座は、個人の言葉すらも記号化されていく現在の中でこそ大切なものであると考える。

『コンピュータと教育』

佐伯胖著『コンピュータと教育』(岩波新書 1986)を読む。
コンピュータの技術うんぬんというよりは、コンピュータの思考様式と人間の思考パターンの差異を指摘する中で、改めて古くさい教育論を展開するものであった。氏は認知心理学が専門のようだが、私はこの手の大きく教育学に分類されるような分野が苦手である。言語学や論理学、発達心理学などのテキストをみるだけで鳥肌が立ってしまう。

一年がやっと終わった。私にとって長い一年であった。

『浅の川暮色』

五木寛之短編集『浅の川暮色』(文春文庫)を読み返す。
表題作は金沢を舞台としたものである。私も学生時分にゼミ合宿で金沢を訪れたが、金沢は観光マップに載っているところよりも、路地裏のごみごみした所や、塀に挟まれたひょんな抜け道の方が面白かった。そのような金沢の町を思い浮かべながら読むと興味深い。

『鐘』

内田康夫『鐘』を読んだ。
日本地図を眺めながら事件の場所を確認しつつ展開を追ったのだが、旅行気分を味わいながら読むことが出来た。先日足の爪の感染症の手術をして縫ったばかりで、不自由しているので、余計に旅情が募ってきた。直ったらバイクでどこかへ出掛けたいものである。

『怪人・松本人志の謎』

天才人物を評価する会『怪人・松本人志の謎』(本の森出版センター 1995)を読んだ。
ダウンタウンの松本のシュールなギャグと吉田戦車・星新一の世界との比較が面白かった。世相・常識を斜に構えて見るという発想はありふれたものだが、その機転の速さが松本の売りなのであろう。