投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『韓国IT革命の勝利』

河信基(ハ・シンギ)『韓国IT革命の勝利』(宝島社新書)を読む。
大きく2部構成になっている。前半は「改革に邁進する韓国、ためらう日本」という章題で、韓国の通信革命の発展を述べ、後半は「知識情報強国への挑戦」と題し、金大中大統領の経済政策や行政改革、通信革命、対外政策を賛美するという内容になっている。今まで文化的側面からしか見えなかった「386世代」について詳しく書かれており一気に読むことが出来た。

『患者よ、がんと闘うな』

過日、慶応大学医学部放射線科講師である近藤誠『患者よ、がんと闘うな』(文芸春秋社)を読んだ。
がん検診による早期治療や抗がん剤治療を統計学的に無意味なものと断定し、手術偏重主義から脱却し、放射線治療の利点を主張するものだ。専門用語の羅列に終わらず文系の私でも十分に理解できる分かりやすい文章であった。しかしタイトルからも分かるように総じて仏教的厭世観がペーソスに流れている感がある。

私は医療で一番大切なことは、だれ一人として後悔しないし後悔させないことだ、と考えています。せっかくよかれと思ってつらい治療をうけたのに、あとで後悔するのはでは悲しすぎるではありませんか。その場合、後悔したのは、現状認識や将来予測と治療の結果とが食い違ったためです。したがって後悔しないためには、がん治療の現状を正確に知り、がんの本質を深く洞察することが必要になるのです。

これまで患者や家族が悲痛にあえいできたについては、がんと闘う、という言葉にも責任があったように思われます。つまりこれまで、闘いだから手術や抗がん剤が必要だ、と考えられてきたわけですが、そのために過酷な治療が行われ患者が苦しんできた、という構図があります。しかし考えてみれば、がんは自分の体の一部です。自分のからだと闘うという思想や理念に矛盾はないのでしょうか。徹底的に闘えば闘うほど、自分の体を痛めつけ、ほろびへの道をあゆむことにならないでしょうか。

がんは老化現象ですが、それはいいかれば”自然現象”ということです。その自然現象に、治療という人為的な働きかけをすれば、からだが不自然で不自由なものになってしまうのは当然です。どうやらわたしたちは、思想や理念のうえで、がんと闘うという言葉から脱却すべきところにきているようです。

またそのように腹をくくったほうが、専門家にすがって無理に治療されてしまうより、長生きできることも多いのです。要するに、治らないことを素直に認めないと、長生きもできないし、楽にも死ねないわけです。

『模倣犯』

今日、春日部文化劇場という春日部東口にある古い映画館に、森田芳光監督・中居正広主演『模倣犯』という映画を観に行った。
古くからある小さい映画館で私が切符を買おうと窓口に赴くと、中でおばあちゃんが一人昼寝をしていた。中へ入ると石油ストーブが焚いてあり、観客も7人しかいなかった。正直内容的にはありきたりな作品でさして述べる点はない。しかし殺人シーンを携帯電話でライブ中継するといった現代的な劇場型犯罪や、トラウマを抱えた犯人の独白など映画というジャンルでは難しい表現をうまく演出していた。

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『GO』

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行定勲監督、窪塚洋介・柴咲コウ主演『GO』(東映 2001)をレンタルで観た。
原作を読んでいないので、確かなことは言えないが、テーマが浅いと感じた。窪塚洋介演じる在日の3世、4世の世代の若者が、北と南の政治摩擦に翻弄される中、自分は自分というアイデンティティを獲得していくという青春映画である。在日問題を軽視するわけではないが、1世、2世ならともかく4世の世代が日韓の狭間で「俺は俺!」と叫んだところで、単なる青年の主張になってしまう。もうすこし政治的な主張を加えるならば更なる掘り下げが必要であるし、青春映画にしたいならばもっとはちゃめちゃなエネルギーを主人公に与えなければならない。その意味でテーマを追いすぎて、中途半端な映画になってしまったのは残念だ。

『ウォーターボーイズ』

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先日、矢口史靖監督『ウォーターボーイズ』を観た。
金のかかっていない映画であった。今どきの男子高校生が、すったもんだの揚げ句、最後に努力が実を結んで、ハッピーエンドという先が見えるつまらない展開なのだが面白かった。受験を控えた男子高校生という設定が、今どきの作品にはない新鮮さとさわやかさを観客に与えたのだろう。