投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『激辛!バイク選び’88』

万沢康夫『激辛!バイク選び’88』(ベストバイク社・講談社 1988)を読む。
古本で買ってきたものだが、懐かしバイクの写真に感懐も深かった。その中で現在の大型スクーターのブームの原点ともなったHONDAの「FUSION」の説明を紹介してみたい。

85年の東京モーターショーにフュージョンが始めて展示されたときに、その発想の日本ばなれしていることに驚いた。これは正しくスクーターのアメリカンなのだが、それだけではない。2輪車の将来のあり方にひとつの提案を投げかけているもののようにも思えた。それはバイクの持っている爽快感と、クルマの持つ快適さをうまく合わせた乗り物の可能性をほのめかせているからだった。

当時のレプリカブームの中で、フュージョンに着目するとは著書の視点は鋭い。80年代末のレプリカブームの後、ゼファーを中心とするネイキッド、スティードを中心としたアメリカン、SRからTWへつながる渋谷系と様々なブームがやってきたが、そうした変遷をへて大型スクーターが爆発的にヒットするとは思いも寄らないものである。そして今回の大型スクーターは一過性のブームに終わらないひとつのジャンルとして根付いていくものであろう。

この本を読んで思ったが、バイクは常にその原点を問われるものだ。その原点がZ2にあるのか、ハーレーにあるのか、CBなのか、GSにあるのか、XLにあるのか意見は分かれるところであろうが、常に原点に返ろうとして「進化」を続けている工業製品もめずらしい。

『哀しい予感』

吉本ばなな『哀しい予感』(1988 角川書店)を読む。
淡々と家族の信頼の絆を描いた作品である。展開もスムーズでハッピーエンドで終わるので読後感は良いが、こってりとした作品が好きな私にとっては少し清潔感があり過ぎるというのが感想だ。何かしら老境の父吉本隆明の先を進んでしまっているような落ち着きが、作品のかしこに感じられる。

本日の新聞より

今日の東京新聞の一面は、中田宏横浜市長による住民基本台帳ネットワーク市民選択制の発表の記事だった。既に福島県矢祭町、杉並区、国分寺市が表明している住基ネット「不参加」ではなく、「市民選択制」とした点に対する評価が集まっている。「選択制」は言葉の上では好印象であるが、実施段階でうまく機能するのか不明である。しかしいずれにせよ345万人を抱える横浜市のトップが総務省に反対の意を表わしたことは評価したい。

昨日の夕刊の文化欄に、ジャーナリスト櫻井よしこさんが、「住基ネットの嘘」という文章を寄せている。

 米国では昨年の九月十一日のテロ事件以来、国民への監視も必要だとして番号制の導入の法案が出された。しかし、議会はこれを否決した。危険人物の特定も必要だが、行き過ぎた監視は民主主義と人の心を抑圧するという理由からだ。政治家が真に国民の代表であるなら、国民の個人情報を一元管理し、個人情報を危機に晒すことはやめるべきだ。見えない力で国民を抑圧する仕組みには断固反対すべきだ。しかもこの仕組みは国民への偽りの説明の中から生まれてきた。個人情報と民主主義、そして自由な精神を、こんな偽りの仕組みの前に屈服させることになってはならないのだ。誰もが闊達に生きるためにも、住基ネットは止めさせなければならないと思う。

櫻井よしこさんと言うとこれまであまりいい印象はなかったが、こと個人やメディアが民主主義を守るといった自由主義的な観点から一貫した発言をしているのは評価に値する。

しかしこの住基ネットの持つ悪点を過小評価している気がしてならない。そもそもこの住基ネット構想は有事法体制を補完するものとして生まれてきているのだ。例えば朝鮮有事の際、米国部隊が軍事展開を行う際、見分けのつきにくい、日本人と韓国・朝鮮人の区分を明確にする等に用いられるのだ。昨日2002年版防衛白書が発表になったが、依然朝鮮半島での有事を

『僕の作文教室』

森本哲朗『僕の作文教室』(角川書店 1983)を読む。
「作文教室」と題うっているが、著者の学生時代の作文修行が半ばフィクション的に描かれている。今の私の問題意識と合致していてすんなり読むことが出来た。中で気になる箇所があったので、引用してみたい。

 デカルトはこう言っているのである。難しい問題に直面したら、それを分割して考えたらよい、と。つまり、問題をいくつかに分けて、そのひとつひとつを解決してゆくことにより、やがて全体が解ける、というわけである。たしかにそうなのであって、これは何もデカルトに教えられるまでもない。げんに問題を「解く」という日本語がそれを語っているでないか。「解く」というのは、問題をバラバラに解きほぐすことなのだ。ついでにいうと、哲学が分かるとか、分からないとかいう、その「分かる」という言葉もそうである。それは問題を「分かつ」ことであり、問題を分かつことができたとき、ぼくらは「分かった!」というのだ。「分かった」とは、「分けることができた」という意味である。そして物事を分ける能力のある人、すなわち理解力のある人を、日本人は「分別のある人」と呼ぶ。

いささか強引な気もするが、今現在私が「分かる」とは一体どういうことなのか、答えが見つからないでいる。今日、聖学院大学での「学習指導と学校図書館」という授業で、これからは「生徒に答えを教える授業」から「生徒が問いを発する授業」へ転換していく必要性が強調された。真に「分かる」ということは、問題を分割して捉え、批判の視座を持ち、問いを発していくことなのだ。と言えども……。

『国民のための経済原論? バブル大復活編』

小室直樹『国民のための経済原論?バブル大復活編』(光文社)を読む。
私は寡聞にして著者のことをよく知らないが、読んでいて腹の立つ本であった。無知な読者のために上から知識を授けてやろうとする姿勢が見え見えなのだ。もちろん敢えてそういう文体を取っているのだが、後味の悪い本である。
しかし内容はいたって普通であった。どんな不況だろうとすべて「GNP=消費+投資」というケインズの説で説明が可能であり、不況を脱する手法の全ては投資の仕方にあり、「ストック調整」の如何にかかっているのだと言う。そして徹底した公共投資、民間投資を説く。
自民党道路族、建設族、北海道開発に巣食う議員生命を下支えするような意見だが、このような意見もあるのだろうという以上の感想はない。