投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『エイズの基礎知識』

山本直樹・山本美智子『エイズの基礎知識』(岩波ジュニア新書 1993)を読む。
最近HIV感染症(エイズ)という単語はマスコミの話題にのぼらないが、ウイルスの恐さを改めて知った。
昨日の東京新聞の朝刊にも出ていたが、世界的にはウイルスによる感染症が増えているということだ。エイズだけでなく、デング熱やエボラ出血熱、ウエストナイル熱、ニパウイルス感染症といった症例が世界各地で報告されている。またインフルエンザもここ近年猛威を振るっている。薬学部進学のパンフレット等を読むと、医化学の発展によりDNAの解析も進み、人工のウイルスが開発されるような時代も近いといったことがほのめかしてある。ちょっと間違えると人類の滅亡にもつながる恐い技術である。

『箱舟の去った後』

五木寛之討論集『箱舟の去った後』(講談社文庫 1974)を十年ぶりくらいに読み返した。
今は亡き稲垣足穂や久野収氏など8人と社会・歴史・文学を自在に横断する討論が展開されている。確か高校時代に読んで、いつかはこのような幅広い討論ができるような評論家になりたいと夢見ていたものだが……。
この中で五木氏の鋭い指摘があったので長い引用になるが紹介したい。

 だから歴史というものをだれが動かしていくか、歴史の関心をどこに当てるかというときに、無名に民衆に当たるときと、そのリーダーに当たるときとあって、この波が交互にあらわれる。戦後民主主義科学の一連の流れの中で、歴史は無名の人間たちが動かしてきたのだ。歴史は人民の歴史である。現代の歴史は水俣の市民たちのように、民衆の怨みの歴史である、そういう歴史がずっといままで支配してきたわけです。そういうものに対する一つのリアクションとしてここに出てくるのが「怨」に対する「誠」、「至誠天に通ず」で国とか民衆を考えていこう、政治を「誠」でやっていこうという考え方が出てくるわけです。
たくさんの人間が歴史をゆり動かしていくとき、その上に立つリーダーが霊媒みたいなもので、ジャンヌ・ダルクはジャンヌ・ダルクでなくてほかの人でもよかった、だれかがジャンヌ・ダルクをつくったのだという観点に対して、いやジャンヌ・ダルクでなきゃだめだった、ナポレオンでなきゃだめだったというように、個人個人のヒーローの役割を最近重視してくるようになったのじゃないか。つまり人民人間主義というか、民衆人間主義というか、トータルとしての人間観に対して、今度は一つ前の近代的自我、といってはおかしいけれども、個人として歴史上の人物の役割を再評価しようという動きがずいぶん強く出てきているような気がするわけです。(「歴史読本」1973年7月号)

現在の新しい歴史教科書グループの誕生を予見したような文章である。歴史観というものは、その客体である過去の歴史を捉えるだけでなく、その主体である現在の社会・政治状況の動向を示唆する。歴史にヒーローを見出そうとする歴史観は、ヒーローを待望する現在の世相の表れである。この文章が私が生まれたまさに73年の7月に書かれたという意味を考える必要がありそうだ。

『ボキャブラ社会学』

藤竹暁『ボキャブラ社会学』(毎日新聞社 1999)を読む。
ギフトや行列、携帯電話、パチンコ、プリペイドカード、レンタルビデオなど日常なこまごまとした物や行為から日本人の心理を読み取ろうとするものである。すぐに読み終えたが、日本人の行動思考パターンを社会心理や時代状況によって類型化させていくもので、新しい発見は少なかった。いやそれとも読者である私自身が精神的に疲れ切ってしまっているのだろうか。

大学〜『情況』

本日は埼玉県民の日で仕事が休みだったので、卒業以来久しぶりに卒論指導でお世話になった杉野要吉教授の研究室へ出掛けた。
新学生会館建設に伴うキャンパス内からの地下部室撤去などによって大学の様相は大きく変わったが、研究室は変わらなかった。今年で退官とのことで、卒業時のバイク事故の関係で研究室に置きっぱなしになっていた卒業論文を返却してもらった。「1930年代における中野重治の主体性について」とタイトルだけは重めかしいが、実体は引用だらけの継ぎ接ぎ論文である。それでも今読み返してみても当時の悩みと、そして希望が走馬灯のごとくかけめぐる。最近、忙しすぎて自分を忘れている。特に5月以降状態が悪い。そのような中で卒業論文を読み返すということは、自分の原点を再確認する意味でも大切であろう。

それにしても大学のキャンパス内の活気のなさには愕然とした。帰りに神保町に寄った。三省堂で『情況』(情況出版2002年11月号)を購入した。帰りのハンバーグ屋で早速、早大非常勤講糸圭秀実氏と教育学部教授高橋順一氏の対談『大学に知の可能性はあるのか』を読んだ。かなりきつい表現を含んでいるが、かいつまむと次のやりとりに集約されるであろう。

糸圭(すが)秀実氏は「68年以降の大学なんて死につつあるわけですから、いかに延命するかということでしかないわけだが、それを可能にするのは基本的には学生運動しかないと僕は思ってるんですよ。簡単に言うと、教員なり経営側なりが何をやるべきかといったら、学生運動の育成なんだ。学生運動を育成することが、実が大学が役になっていることの証拠なんだよね。学生運動がないっていうことは、大学の矛盾を隠蔽しているということであり、4年ないし6年なりで学生を無責任に放り出すだけであって、社会に対して何の役にも立ってないということなんだ。矛盾があるということを教えることが世のため人のため社会のために大学があるということなのであって、まともな大学経営者は学生運動の育成をちゃんと考えるべきなんです。」と述べ、全共闘運動のあった日東駒専の偏差値が上がり、運動のなかった国士舘や拓大が落とした例を付け加えている。

それに対し、高橋氏は「大学に帰属している学生たちに一体何が必要なのか、大学が何を提供すべきなのかという根幹にかかわると思うんだけども、例えば早稲田にしても、いま大学がものすごく清潔じゃないですか。清潔といえば聞こえがいいけど、ノイズを許さないということですね。ノイジーなものを容赦なく排除していく。最近の早稲田の状況を見ていても、ノイジーなものを排除することはどう見ても大学の自殺行為としか思えない。ノイジーなものがなくなったとき大学は要らなくなる。」と主張する。

そして最後は語学教育やリカレント教育などで大学を活用していく点で意見を同じくする。全共闘的な運動の提起を促しつつも、「大学解体」的なラジカルなものではなく、あくまで「ノイズ」レベルの学生運動のあり方を述べるあたりは首を傾げざるを得ないが、今日のキャンパス風景を思い出すに、議論自体は納得できるものであろう。

「障害学の時代へ」

本日の東京新聞の夕刊に全盲の静岡県立大学国際学部教授の石川准氏の「障害学の時代へ」と題した文章が載っていた。一口に「障害学」というのは「だれもが自由に、つつがなく、元気に生きていくのに必要なだけの財やサービスが得られるように分配することを優先すべきだと考える。もちろん働ける人には大いに働いてもらわなければならないので、働いて市場で評価された人ほど多くの収入を得てよいと考える」という市場主義経済をあわせ持つ共産主義の発想である。
「身体障害」、「精神障害」の中に含まれる「障害」とは、結局誰にとって一番の障害になのかと突き詰めていくと、結局特定の個人ではなく、市場主義経済の円滑な運営にとって支障になるものなのである。するならば「障害」を解消していこうとするならば、社会のあり方を変えていかねばならないということだ。「障害者問題」は得てして個人の思いやりやボランティア精神という議論に回収されがちであるが、石川氏の提唱する「障害学」の射程はあくまで社会のありようである。