投稿者「heavysnow」のアーカイブ

『青春論』

亀井勝一郎『青春論』(角川文庫 1962)を読む。
1956年の週刊読売の「若い河」という欄に連載されたコラムとその前後に書かれた短文がまとめられている。亀井氏は戦前は中野重治と同じプロレタリア作家同盟の出身であるが、「転向」後は「日本浪漫派」の一員として、日本古来の寺社や伝統に回帰して、中野とは別の方向を歩んでいくことになった。しかしあるべき理想社会が共産主義国家なのかそれとも別の方向なのかという違いこそあれ、現実社会の耐えざる変革が必要であり、そうした変革のエネルギーは若人に宿っているという考え方は同じである。憲法改「正」の問題についても米国追従型のなし崩し的な軍備拡大が青年の徴兵制度につながるという点から明確な反対を述べている。そしてつぎのような言葉で締めくくる。

近いうちにありうるかもしれぬ憲法改正は、日本の理想と日本の倫理のために危険である。「現実的」という言葉をよく使うが「現実的」という名目で「現実」の奴隷になってはならない。

「都立大学の改革の方向」

今日の東京新聞の夕刊に「都立大学の改革の方向」と題して南雲智都立大教授の石原慎太郎都知事による新大学構想に反対の論が掲載されていた。
大学の自治が都によって侵害されており、学問の自由を守るべきだという分かりやすい論であった。しかし、目指すべき都立大学のありようについては展開されていない。南雲氏は中国文学が専門ということだが、現在の日本の社会状況の中で、文学の価値、そして大学において文学部、文学科が必要とされる意義について自分の言葉で語ってほしい。都民から注目される「都民の大学」という宣伝文句だけでは石原都知事に負けてしまうだろう。

「ガイアの夜明け」

今夜テレビ東京の『日経スペシャル「ガイアの夜明け」』という番組を見た。
東京大学が大学内の研究結果を特許として売り出し、新しい形での産学協同路線の評価を探る番組である。目に見え、数字として現れやすい結果をもてはやす大学評価制度の表れである。果たして企業の公害や軍需産業批判など特許にもならず、企業に売り込みも出来ない研究は誰が評価してくれるのだろう。

『ジョゼと虎と魚たち』

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先週の土曜日に、犬童一心監督『ジョゼと虎と魚たち』(2003)という映画を渋谷パルコへ観に行った。
仕事が終わってからすぐに出掛けたが、単館上映であり、しかも初日だったので、観れるかどうか心配だったが、いつもながらぎりぎりセーフであった。池脇千鶴演じる脚の不自由なジョゼに対して「こわれもの!」と叫ぶシーンなどにどきりとしたが、極めて普通の恋愛映画であった。

 

「障害者」の恋愛映画というと変に肩に力の入ったものが多いが、脚の障害を変にクローズアップする事なく、どこにでもありがちな関西の若者の恋愛事情として描かれていた。世間によく言う「バリアフリー」とは公共施設や生活設備などの段差をなくすことだけではなく、「障害」があろうとなかろうと、一人の人間は一人の人間であり、そして時には恋愛の対象としてつき合っていくことが出来る心を持つことだと、見終わった後にしみじみ感じた。決してこの「ジョゼ〜」は人権映画でも、教育映画でもない。単なる恋愛映画である。

『現代イスラムの潮流』

少し古い本であるが、宮田律『現代イスラムの潮流』(集英社文庫 2001)を読んだ。
9・11のテロ以降、「ムスリム(イスラム教徒)=物騒な、怖い人びと」というイメージがテレビ報道によって喚起され定着されつつある。しかし「イスラム」という語はアラビア語で「平和」を意味する「サラーム」という語から派生しているように、元来ムスリムはアッラーの下での平等社会の形成を目指すものである。「ジハード(聖戦)」も元々は「ムスリムの強い努力を伴う行動」という宗教的な色合いのもので、「イスラム過激派」なるものも欧米による冷戦構造における軍事支援の結果であると著者は述べる。そのためにブッシュ米国大統領の言う個人主義を重んじる「人権」は、平等を尊ぶイスラムの共同体を破壊し、貧富の差を拡大するものでしかない。そうしたアメリカニズム=グローバリゼーションが拡大すればするほど、イスラム自身のアイデンティティを守ろうとする「イスラム原理主義」が台頭してくるという流れは是非とも理解する必要がある。日本でももう数年すれば、イスラムとは違う形で「日本原理主義」なるものが様々な局面で現れてくるだろう。