カン・ジェギュ監督『ブラザーフッド』(2004 韓国)を観に行った。
兄弟愛をメインにした映画かと思ったが、米ソ中の大国の思惑に翻弄される朝鮮戦争の悲哀を描いた戦争映画であった。無二の兄弟である兄と弟の間に「38度線」が作られてしまうという朝鮮韓国民族のつらい歴史が顔を覗かせる。共産主義者だから殺さなければならないというイデオロギーが結局は米国によって作られたまやかしであったということが激しい銃撃戦の中で描かれる。涙が流れるような感動はなかったが、よい映画であった。
翻って日本にはそうした戦争映画は数少ない。広島や沖縄での被爆体験を描いたドラマや映画は数多くあるが、韓国併合、南方進出や南京大虐殺に関わった日本兵の葛藤を扱った映画を私は寡聞にして知らない。あれば見てみたいものである。
投稿者「heavysnow」のアーカイブ
『現代社会と人権:女性・障害者・死刑…』
上智大学総合講座担当者編『現代社会と人権:女性・障害者・死刑…』(新幹社 1992)を読む。
厳格であるべきはずの死刑の執行手続きに法務大臣の恣意的な判断が加わったり、国際的な潮流でもある男女平等な労働環境整備が、法よりも日本的な「行政指導」の努力目標に掲げられている現状が具に報告されている。まだまだ日本社会は法治主義が徹底されておらず、一個人のあいまいな政策判断が多いことを知った。
『日本の現代』
鹿野政直『日本の現代』(岩波ジュニア新書 2000)を読む。
現在イラクの多国籍軍による統治の是非が問われている。アメリカのブッシュ大統領や小泉総理は「テロに屈しない」という強烈なメッセージを発しているが、一連の残虐なイラク戦争が大量の「テロリスト」を生んでいるという現状は如何ともしがたい。しかしそうしたイラク統治の正当化の根拠に、日本の戦後処理が挙げられている。戦後のGHQによる占領が日本を民主化に導き、戦後の奇跡と呼ばれた経済成長へつながっていくという歴史がさも美談調に語られるのだ。しかしGHQによる占領政策が一般の日本人に対してはやはり重圧をもたらしたという歴史は、今後のイラク統治を考えていく上で忘れてはならないだろう。日本が独立を果たし、日米安保条約が成立した2日後に皇居でメーデー事件が起きているが、GHQの占領政策との絡みで歴史的に位置づけなされなければならない。
『環境政治入門』
松下和夫『環境政治入門』(平凡社新書 2000)を読む。
「環境」というと70年代までは、国土開発の一環という位置づけしかなかったが、80年代以降環境問題が政治問題化してサミットや国連で議論でされるようになって久しい。環境問題は地球規模で進行しながらも、その被害は直接国民の身に降り掛かり、その解決策は家庭での細かな配慮に還元される部分も多いということで、非常に多岐にわたる行政判断が求めれる分野である。著者はそうした「環境政治」について以下のように定義づける。
一般的に、法律は、社会のコンセンサスを反映したものであるべきだし、その時々の社会の常識を制度化したものといえる。その意味では環境行政や環境政治における透明性と民主化の問題は、ひとり環境分野だけの問題として解決できる課題ではなく、社会全体として取り組んでいくべきテーマであった。行政の透明性に関してこのように考えてみると、日本の環境行政が他の行政分野と比べてとくに遅れていたというよりは、日本社会の行政や政治の風土、および構造がアメリカとっは相当に異なっていたことの反映というべきかもしれない。ただ環境行政がほかの行政分野よりも直接に住民運動と接していたり、情報公開の課題と直面する機会が多く、それだけに独自の工夫と取り組みを迫られてきたという面もあったことは指摘しておかねばならない。
そして、
アジアではこれまで域内での研究機関や民間団体相互の交流が乏しかった。むしろ植民地時代の遺産として旧宗主国との関係が強かったり、戦後はアメリカ主導による交流活動が中心になりがちであった。しかし域内での貿易と投資の流れがますます拡大し、経済的相互依存関係強まるなかで、域内の知的交流を深め、アジア地域の共通課題である環境と開発、特に持続可能な開発につき理解を深めることがますます重要な意味を持ってくる。
『教育思想(下):近代からの歩み』
村井実『教育思想(下):近代からの歩み』(東洋館出版 1993)を読む。
古代ギリシャのソクラテスやプラトンから、ルソーやヘルバルトを経て、現代のデューイまで一貫して、「善さ」を持った人間を育てるのか、「善さ」に向かって人間を育てるのかという教育哲学の根本原理に立ちかえって整理し直し、現代の教育を巡る問題にまで照射している労作である。教育史のすべてが分かったような気がする。また1946年にアメリカ教育使節団が提出した「アメリカ教育使節団報告書」を改めて熟読してみたが、わずか3週間あまりの滞在であったにも関わらず、日本の教育問題を浮き彫りにしている。現在参院選で教育基本法の改革が論点となっているが、その教育基本法の成立の土台となったこのレポートをもう一度読み返した上で、論議を重ねてほしいものである。
日本の教育制度は、その組織についても、カリキュラムについても、近代の教育理論に基づいて当然改革されねばならなかったのであろう。その制度は、一般大衆と一部の特権階級とに別々の型の教育を用意する、高度に中央集権化された、19世紀的パターンに基づいていた。
教授の各段階には、期待されるべき一定量の知識があるとして、生徒の能力および興味の差異を無視する傾向があった。指令、教科書、試験、および督学によって、その制度は、教師が職業的自由を発揮する機会を減らしていた。教育の効果は、標準化や画一化がどの程度達成されたかによって測られた。
いかなる国家においても、忠誠心と愛国心が望ましくない、ということはない。ただ、それらをいかにして、適当な代価をもって確保するかが問題なのである。無条件の服従や盲目的な自己犠牲は、代価としてはあまりに高すぎる。個人の知性は、忠誠心や愛国心と引き換えに売り渡してしまうには、あまりに貴重である。そのうえ、教師も生徒も画一化してしまうとなれば、群衆心理が作り出されやすい。
このようにして、日本の教育制度は、多くの点で、生徒を現実社会に適応するように育てることに失敗した。その原因は、学ぶ側の理解なしに、これらの目的が教えこまれたことにあった。

