中野独人『電車男』(新潮社 2004)を読む。
何とも感想の述べにくい作品である。2チャンネルの掲示板の書き込みを抜粋し、小説風に仕立て上げた一人の男性の恋愛の記録である。あるもてない男性会社員とお嬢様風なの女性の恋愛が話の中心なのだが、その恋愛の展開は間接的にしか語られない。だが、それ以上に、レスという形態でその恋愛を見守るネット上のウォッチャーの焦燥感や感動がリアルに語られる。ウォッチャーたちのアスキーアートを巧みに駆使した記号的な感情表現が羅列する文章を読むことで、いつしか読者もその輪の中に吸い込まれていくのだ。
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『障害者は、いま』
大野智也『障害者は、いま』(岩波新書 1988)を読む。
日本短波放送のプロデューサーとして障害児関係の番組を担当した縁で日本障害者協議会の役員も務めた著者である。障害者は救済や同情の対象でもなく、やさしさや親切を一方的に掛ける存在でもない。著者は障害者の自立運動を消費者運動として捉え、福祉サービスを主体的に選択できることが自立への第一歩だと述べる。確かにどんなにきめ細かいサービスを提供したところで、社会保障の対象という枠組みは崩せない。小規模作業所や授産施設などで働き、一人の納税者としてごくごく当たり前の生活基盤を寄越せという運動の方が分かりやすい。朝起きて、適度に仕事して、適度に遊んで、適度に恋愛して、夜寝るという生活を「保障」するのではなく、当然のものとして「共有」するという発想の転換が求められているのかもしれない。
養護学校が義務制となった当時、養護学校入学が就学指導委員会によって強制され、入学を拒否する親たちとの間でトラブルが多発した。その後、父母の意向を尊重すると表明した教育委員会も増えてきたが、決定権が行政にあることには変わりはない。施設入所にしても卒業後の進路にしても、その選択は本人の意志と無関係に、親や教師や福祉事務所が決定する。障害児は家庭で管理され、学校で管理され、施設や病院で管理されてきた。この管理された生活から脱却し、自らの生活を自ら選び、決定できることが重要である。
(中略)
六歳の精神障害児が「選択する能力」を持っているか、と危ぶむ人がいるかも知れない。だが、かつて普通学級で「お客様」として疎外されていた子が障害児学級へ移って生き生きしたように(もちろん、その逆もある)、入学前後に普通学級も障害児学級も体験できるならば、何らかの表現で希望は示すはずである。
福祉は行政が与えるものではなく、障害者が必要なサービスを選択し、購入する時代に入りつつある。その時々の社会状況の中から制度化されたものの、現在では必ずしも必要としないサービスなどは、障害者の側から積極的に廃止の声をあげる勇気が必要であろう。
これは最近いわれている「福祉の有料化」とは違う。基本的な部分についてはあくまで行政の責任であり、財政上の理由で負担増を強いるのは筋違いである。障害者の所得保障の現状、その置かれている立場をみるならば、さらにきめ細かい社会保障政策の充実こそ必要であり、安易な民間依存はきわめて危険である。
『デジタル・キャンパス』
松岡一郎『デジタル・キャンパス』(東洋経済新報社 2001)を読む。
これまでの講義室で白墨とテキストだけで成立していた文系学部の授業のあり方自体が、情報技術によって変容を迫られていく実態が詳細に述べられている。
急激な少子化によって大学は18歳〜22歳の学生だけを集めていては生き残れない。昼夜開講制の大学院や通信制大学・院で、20代後半の学生や社会人学生の再教育、生涯教育の充実化が迫られている。すでにアメリカに世界中で数万人も学生を集めている通信制大学があり、「黒船」の来襲もすぐそこまで来ている。
しかし、一方でインターネットを介したマルチメディアだけで教育は成立するものではない。いたずらなバーチャル・ユニバーシティへの移行は、大学という「場」が解体され、やる気もない引きこもり的な学生が生み出すだけである。
『ミッドナイトコール』
上野千鶴子『ミッドナイトコール』(1990 朝日新聞社)を読む。
朝日新聞に連載されたコラムなのだが、彼女の日常生活の一端がかいま見えて面白かった。しかし、長い間本棚に転がっていた本だったので、一度読んだことがあるような疑心暗鬼を抱えながら読み進めていった。その中で男と女の一人称についての話が興味深かった。女性は常に「私」という自己規定が意識されているのに対し、男性は社会的自己規定と、私的な自己規定に分離があるという指摘は、男性の側からは決して出てこない意見であろう。
男にとって、一人称の使用が、こんなにやっかいなものだとは知らなかった。「私」という性別を超えた一人称を、男は社会人になってから獲得する。それは未成熟な「ボク」から、社会的な「私」へのテイクオフだ。成人してからも公的な文章の中で「ボク」を使いつづける男に感じるわたしの不快さは、自分の未熟さにしがみつく男の甘えに対する嫌悪だろう。だが、私的な領域に退行した時、男は再び「ボク」や「オレ」のような性別のあらわな一人称を使いはじめる。性別を超えようとすれば社会化された公的な言語を使うほかなく、逆に私的な領域でしゃべろうとすると、性別のあらわな一人称にしばられる。公的な〈私〉と私的な〈私〉との間に、断絶のある男って、けっこう不自由なのね。それに比べると、女は私的な〈私〉と公的な〈私〉との間の断絶を経験しないのかもしれない。
『福島瑞穂の新世紀対談:おもしろく生き抜いてみよう』
福島瑞穂『福島瑞穂の新世紀対談:おもしろく生き抜いてみよう』(明石書店 2001)を読む。
彼女がまだ党首になる前に『月刊社会民主』に連載された対談集である。佐高信氏や、金子勝、辺見庸、浅田彰、彼女のパートナーの海渡雄一氏などと、日本における社会民主主義の可能性について福島さんが素直に尋ねる形になっている。ちょうど対談の時期は小渕政権の頃の日米新ガイドライン関連法案、日の丸・君が代国旗・国歌法案、盗聴法、国民総背番号制に道を開く住民基本台帳改悪法成立など、まさにファシズムとしかいいようのない、法案が次々と成立していった時期と重なる。その渦中で福島さんが何に取り組み、何を目指そうとしたのかが分かって面白かった。
辺見氏が対談の最後に以下のようなまとめを行っていた。いかにも彼らしい発言である。
政治家も弁護士ももちろん僕らも労働者も、実はみんな表現者だと思うんです。言葉を競っているんだと思う。それが人の胸の深くにどれほど届くのかというのが勝負だと思うんです。政治はそうであるべきだし、現実にそうじゃないのかと思う。そこに返るしかないと思っているんです。
言葉がこれほど乱暴に大量消費されて、一山いくらで売られている時代はない。特に政治の世界では、今日の言葉が、明日には何の意味も持たなくなっていたりする。だからこそ自前の言葉というのがすごく大事だと思いますよ。悪ずれした政治家は立板に水のように話しますが、聞く者の胸には何も着床しない。演説なんか下手でいいのだと思います。容易には言いえないことを、苦しみながら、言葉を厳しく選びながら訥々と、しかも必死で語ろうとする。その方が尊いのだと僕は思います。

