上野千鶴子『ミッドナイトコール』(1990 朝日新聞社)を読む。
朝日新聞に連載されたコラムなのだが、彼女の日常生活の一端がかいま見えて面白かった。しかし、長い間本棚に転がっていた本だったので、一度読んだことがあるような疑心暗鬼を抱えながら読み進めていった。その中で男と女の一人称についての話が興味深かった。女性は常に「私」という自己規定が意識されているのに対し、男性は社会的自己規定と、私的な自己規定に分離があるという指摘は、男性の側からは決して出てこない意見であろう。
男にとって、一人称の使用が、こんなにやっかいなものだとは知らなかった。「私」という性別を超えた一人称を、男は社会人になってから獲得する。それは未成熟な「ボク」から、社会的な「私」へのテイクオフだ。成人してからも公的な文章の中で「ボク」を使いつづける男に感じるわたしの不快さは、自分の未熟さにしがみつく男の甘えに対する嫌悪だろう。だが、私的な領域に退行した時、男は再び「ボク」や「オレ」のような性別のあらわな一人称を使いはじめる。性別を超えようとすれば社会化された公的な言語を使うほかなく、逆に私的な領域でしゃべろうとすると、性別のあらわな一人称にしばられる。公的な〈私〉と私的な〈私〉との間に、断絶のある男って、けっこう不自由なのね。それに比べると、女は私的な〈私〉と公的な〈私〉との間の断絶を経験しないのかもしれない。