『障害者は、いま』

大野智也『障害者は、いま』(岩波新書 1988)を読む。
日本短波放送のプロデューサーとして障害児関係の番組を担当した縁で日本障害者協議会の役員も務めた著者である。障害者は救済や同情の対象でもなく、やさしさや親切を一方的に掛ける存在でもない。著者は障害者の自立運動を消費者運動として捉え、福祉サービスを主体的に選択できることが自立への第一歩だと述べる。確かにどんなにきめ細かいサービスを提供したところで、社会保障の対象という枠組みは崩せない。小規模作業所や授産施設などで働き、一人の納税者としてごくごく当たり前の生活基盤を寄越せという運動の方が分かりやすい。朝起きて、適度に仕事して、適度に遊んで、適度に恋愛して、夜寝るという生活を「保障」するのではなく、当然のものとして「共有」するという発想の転換が求められているのかもしれない。

養護学校が義務制となった当時、養護学校入学が就学指導委員会によって強制され、入学を拒否する親たちとの間でトラブルが多発した。その後、父母の意向を尊重すると表明した教育委員会も増えてきたが、決定権が行政にあることには変わりはない。施設入所にしても卒業後の進路にしても、その選択は本人の意志と無関係に、親や教師や福祉事務所が決定する。障害児は家庭で管理され、学校で管理され、施設や病院で管理されてきた。この管理された生活から脱却し、自らの生活を自ら選び、決定できることが重要である。

(中略)

六歳の精神障害児が「選択する能力」を持っているか、と危ぶむ人がいるかも知れない。だが、かつて普通学級で「お客様」として疎外されていた子が障害児学級へ移って生き生きしたように(もちろん、その逆もある)、入学前後に普通学級も障害児学級も体験できるならば、何らかの表現で希望は示すはずである。

福祉は行政が与えるものではなく、障害者が必要なサービスを選択し、購入する時代に入りつつある。その時々の社会状況の中から制度化されたものの、現在では必ずしも必要としないサービスなどは、障害者の側から積極的に廃止の声をあげる勇気が必要であろう。

これは最近いわれている「福祉の有料化」とは違う。基本的な部分についてはあくまで行政の責任であり、財政上の理由で負担増を強いるのは筋違いである。障害者の所得保障の現状、その置かれている立場をみるならば、さらにきめ細かい社会保障政策の充実こそ必要であり、安易な民間依存はきわめて危険である。

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