藤井誠二『これが初任者研修の実態だ!:「ものいわぬ教師」づくりへの道』(あゆみ出版 1988)を読む。
臨教審答申が出された頃の教育状況を追ったもので、文科省による「管理教育」「管理職を中心とした学校運営」「受験競争の激化」「日の丸・君が代強制」といった右派的改革と、日教組や全教などが打ち出す「生徒主体の教育」「現場からの積み上げによる学校運営」「創造的な人格の完成を目指す教育」「平和教育の推進」などの戦後民主主義的スローガンの、はっきりした対立軸に沿って初任者研修を説明している。日教組・社会党の路線変更などあり、右も左も分からなくなってしまった現在から見ると、その二項対立の単純さに懐かしさすら感じる。
インタビューに応じた教員の話であるが、過去の生徒観から抜けきれず、型にはまった授業しか出来ない中年教員こそ研修が必要だという指摘は今もって変わらない。
『SEがゆく〜波乱万丈!SE日記』
北村よしみ『SEがゆく〜波乱万丈!SE日記』(星雲社 2001)を読む。
SEというと、パソコンに向かってひたすらプログラムを組むだけの孤独な個人プレーだと思われがちである。しかし、コンピュータシステムは人事管理や在庫管理、はたまた倒産後処理など社内の衝突や軋轢が生じる分野に導入されるケースが多く、SEは決して個人だけで出来る作業ではなく、面倒な連携作業を強いられる仕事である。多忙を極めるにも関わらず、周囲の理解は薄いので割に合わない仕事である。
『受験:その光と陰』
山岸駿介『受験:その光と陰』(教育史料出版会 1990)を読む。
今から15年以上前に出版されたちょっと古い本である。朝日新聞の記者である著者が、80年代後半の証券・土地バブルと時期を同じくして膨らんだ受験業界について、私立学校、国公立学校、塾予備校のどの陣営にも肩入れすることなく、丁寧な取材を試みている。私たちはついつい受験産業というと、「学校vs塾」「私立vs公立」という二項で括ってしまいがちである。しかも、受験勉強一本やりの私立や塾では人間性が疎外され、ゆとりと多様性を持った公立でのんびり過ごすことで人間性が養われるといったお決まりの論調に雷同しやすい。
しかし、様相は複雑で、例えば他県に優秀な生徒が流れるのを防ぐために、県教委が県内の私立学校立ち上げに際して公立の実績ある教員を送り込んだり、私立や中小の塾に生徒を持っていかれないように、公立学校と大手予備校が提携したりすることは日常茶飯事のようである。また、共通一次からセンター試験への移項に伴う混乱とスピード化に伴って、予備校が受験生の志望校判定だけでなく、大学側の辞退率を見込んだ合否のラインの線引すらも握ってしまった話は、理詰めで詰めていく探偵とがむしゃらに逃げる犯人の推理小説のようである。
受験競争の弊害を指摘する事は易しい。しかし、子どもの進路を全く抜きにして教育を行なうことはできない。また、競争やハードルのない環境で人間性を陶冶するのは大変に難しい。その難しさをどう受け止めればよいのだろうか。
『大学サバイバル』
古沢由紀子『大学サバイバル』(集英社新書 2001)を読む。
急激な少子化による生徒募集に苦しむ私大のみならず、小泉内閣の「聖域なき構造改革」によって独立採算を迫られる国公立大学、また、大学への格上げを切望する短大や高専の学長などの「大学」を巡る状況について、読売新聞の記者である著者が自分の経験を相対化しつつ、わかりやすくまとめている。
著者は、昨今の大学について、「大学の種別化、機能の分類といったことが自主的に行なわれていかないと学生にとっても社会にとっても無駄なコストが大きすぎる」と現状維持に批判を加える。そして、「エリート教育」や「技能育成大学」「生涯学習対応型大学」「社会人教育大学院」などの実践例を挙げ、大学内部だけではなく、大学を捉える社会の視線自体が多様なものになった以上、「社会への貢献」を前提とする大学も多様化せねばならないと主張する。まとめにすらならない結論である。しかし、教育論に共通する事であるが、各世代、男女、文系理系、国公立私立……、人の数だけ大学に対する思いはばらばらである。各人の経験に基づく極めて主観的な「あるべき大学像」から、いかに脱出できるかと言う点に、大学改革の鍵があるようだ。
『校長がかわれば学校が変わる』
久保田武『校長がかわれば学校が変わる』(夏目書房 1997)を読む。
教育困難校の汚名を負っていた都立羽田高等学校(現都立つばさ総合高校)の校長として赴任した著者が、「入りやすい学校から入りたい学校へ」のスローガンを掲げ、清掃指導の徹底やコース制の導入など先陣を切って改革を進め、魅力溢れる学校づくりに献身的に取り組んだ経緯が綴られている。
これまでの教育の荒廃の原因は、猫の目的な政策しか打ち出せなかった文科省や硬直化したスローガンから逃れられなかった革新系組合のせいではなく、年齢や職歴による順送りの人事制度に固執する愚鈍な校長会にあったと批判を投げ掛ける。採用や昇進の段階で役人や一般教員は一応能力による選抜が行われるが、校長会は旧帝大や筑波大の学閥で固められている。そうした影響もあってか、少しでも偏差値の高い学校への異動を目論み、自校の教育に関心のない政治屋的な校長が生まれたり、文科省や都道府県の役人の言うことは聞かず、さりとて組合所属の教職員も説得できない校長が出てきてしまったと分析する。教育委員会の幹部が、校長会をないがしろにして、組合の幹部と内密に話し合うということもよくあるようだ。出世に勤しむ管理職や権利ばかりを主張して憚らない怠慢教師の増加が公立学校の質的低下に繋がっているという指摘には共感できる部分が多い。しかし、こうした議論の先にはいつも「教育とは何か」という永遠の命題が待ちかまえているのだが……。
