『IN HER SHOES』

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キャメロン・ディアス主演『IN HER SHOES』(2005 米)をさいたま新都心へ観に行った。
キャメロン・ディアスの笑顔と演技が光る映画であった。交通事故によって早くに母親を亡くした姉妹とその父親、祖母たちが、お互いのあるべき家族像を巡って対立する。タイトルからして女性向けのおしゃれな映画かと思ったが、いかにも現代アメリカらしいテーマで、自立した個人によって構成される家族愛が模索される。

日本で姉妹の物語というと、「姉—妹」という上下関係を前提とした依存関係がテーマになりやすい。しかし、アメリカでは姉も妹も同じ”sister”という語で括られ、上下関係ではなく、幼なじみの親友に近い関係で成り立っている。そのような微妙なsisters関係を日本人の男性が理解するのは難しいと感じた。

下手くそな文章

ここしばらくの読書日記を読み返すと、やたら漢字を使い、主語と述語の関係が崩れてしまっている下手くそな文章になっている。昼間「ひらがな」に囲まれている仕事なので、夜に向かうパソコンでは、その反動でつい漢字を多用してしまうのだろうか。下の文章も書いているうちに訳が分からなくなってしまった。。。

『蟹工船・党生活者』

 小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫 1954)を読む。
 先日の立川反戦ビラ弾圧事件が、ちょうど戦前の反戦運動の状況に似ていることを懸念し、10数年ぶりに読み返してみた。著者の代表作である『蟹工船』では、帝国主義を邁進する1920年代の日本における、産軍複合の苛烈な資本主義に抑圧される労働者の団結が鮮やかに描かれる。職階を越えた労働者の統一戦線結成という大団円に向けて、まるでオペラの台本を読んでいるように、話が展開していく。

 解説の中で蔵原惟人氏が「全体としての集団の力はかなりダイナミックに示されているが、個々の労働者の独自な階層的・個人的容貌がはっきりと印象づけられない結果をともなった」と指摘するように、残念なことに運動に参加する個々の労働者の主体性は捨象されてしまっている。登場する人物全てが「こんなことして会社をクビになったらどうしよう…」とか「俺は身分の低い彼らとは違う…」といった不安や邪念に駆られず、粛々と行動を始めている。その行動原理はあたかも「マルクス神」や「レーニン神」といった神にすがるような信仰心に近いものである。大乗仏教や一向宗に替わる新たな信仰の対象として外来の社会主義革命が幸福をもたらすものだと礼賛の対象としている。「キョーサントー」と何遍も唱えていればいつかは平穏無事に共産主義革命が実現するかのように、この世(資本家優位の社会)とあの世(労働者優位の社会)の仲介人として共産党が登場する。

 著者の最期の作品となった『党生活者』でも、労働者大衆は共産党細胞の指示の下に、紆余曲折を経ながらも都合よく組織化が図られていく。そこには中野重治が挫折しながらも、敵を見据えていく粘りのようなものは感じられない。中野は『文学者に就いて』(1935)の中で次のように述べる。

弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林(多喜二)のいきかえつてくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕らは、そのときも過去は過去としてあるのであるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。

中野は、小林多喜二を殺した者は国家や警察といった権力だけでなく、

昨日の東京新聞夕刊

昨日の東京新聞夕刊に、自衛隊イラク派遣反対のビラを配るために、東京都立川市の防衛庁舎に無断で立ち入ったとして住居侵入罪に問われた市民団体のメンバーが東京高裁にて逆転有罪判決を受けたとの記事が載っていた。防衛庁職員の身体やプライバシーに何らの危害を加えることなく、単に自衛隊派遣反対の意思を表明しただけで罰せられるという恐ろしい事件である。被告らは最高裁へ上告したそうだが、住居侵入罪という微罪ではなく、後々の民主主義を守るために、表現の自由という観点から、論議が展開されるべきである。

詳細は立川反戦ビラ弾圧事件のホームページへ。

静岡大学助教授の笹沼弘志氏は、今日の東京新聞朝刊で、「判決では『他人(自衛官)の権利侵害』の中身を『イラクへの派遣命令の拒否を促す』ビラの内容としている。肝心なことは侵害の中身が自衛官のプライバシーなどではなく、ビラで揺れる自衛官の士気という国家機能という点だ。結局、政治的言論だから機制すべきだという判断だ」と述べ、そして、「ビラは言論の基本だ。それを配る自由抜きに民主主義は成り立たない」と、一昔前ならばタカ派の政治家にとっても当たり前の条理を述べている。

さらに、評論家平岡正明氏は、本日の東京新聞夕刊で、自身が青春時代を過ごした1960年代と現在を比較して次のように述べている。

いつからこんな窮屈な時代になったんだろう。いかがわしく猥雑なものがはらむ思想の可能性、正しいかどうかより面白いかどうかの方法を僕らは追い続けてきた。でも、現代はそれが通じません。民主主義のルールで言論統制こそしませんが、犯罪や暴動の意味とはなどと言うと、必ずその後で口ごもらざるをえなくさせる気分のファシズムが社会を覆っている。いかがわしさの封じ込めが正常化と思われているわけですが、実はそれは社会の弾力が弱まり、個性や想像力が単純になっていることでしょう。禍々しさや異論の余地のない、誰でも肯定するようなお手軽な考えを、僕は思想とは思わない。

戦争は遠い海外からやってくるのではなく、私たちの日常生活の足下から生まれてくるのである。そのことを忘れてはならないだろう。

『智恵子抄』

高村光太郎『智恵子抄』(新潮文庫 1956)を読む。
精神分裂病(統合失調症)と診断され、7年間もの入院生活の末に他界した妻智恵子に捧げる愛の詩集である。智恵子が既に「人間商売をさらりとやめて、もう天然の向こうへ行ってしま」い、「もう人間界への切符を持たない」状態になってしまっても、純愛を貫く夫としての著者の意志の強さが数多くの詩にちりばめられている。「見えないものを見、聞こえないものを聞く」と錯乱状態になってしまった妻であるが、面会に行くと「わたくしの手に重くもたれて泣きやまぬ童女のやうに慟哭する」状態であったようだ。
しかし、そのような妻を高村氏は「をんなは付属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか」と可愛がり続けた。そして、妻がこの世を旅立ち10年を経た後も、「智恵子はすでに元素にかへつた。元素智恵子は今でもなほわたくしの肉に居てわたくしに笑ふ」と亡妻を偲ぶ。高村氏自身による「智恵子の半生」の記録と新潮文庫版の草野心平氏による解説とを並行して読んでいくと、詩が書かれた頃の背景が分かってなお感動が深まること間違いない。

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