本日の午前中、下の子の自転車の練習を兼ねて、杉戸アグリパークへ出掛けた。
何度も付けたり外したりした補助輪だが、やっと補助輪無しで走ることができるようになった。
月別アーカイブ: 2016年4月
『逆転のメソッド』
「夢が目標に、目標が課題に、そして課題が日課になって毎日の生活の中に組みこまれていく。こうした環境に置かれた人間が強くならないはずがありません。」
上記は、今年の1月の箱根駅伝でチームを2年連続優勝に導いた青山学院大学陸上競技部の原晋監督の言葉です。目標を達成するためには、日常の生活を整えていく必要性を指摘しています。
中学校までは、学校や塾の先生からのアドバイスに従い、課されたプリントをこなしていくだけである程度の力をつけることができました。しかし、高校では教員が手取り足取りみなさんの目標や行動をコントロールすることはありません。自分の責任のもと、自分で決めた目標に向かって、自分を管理する力が必要です。校訓にある「自主自律」は、単なる自由という意味ではなく、自分で自分を支配する力です。最初は少し面倒だと思いますが、夢や目標を実現できる「習慣」を作り上げてください。
また、原監督は著書『逆転のメソッド』(祥伝社 2015)の中で、次のように述べています。
指導者向けの内容となっていますが、趣旨は理解できると思います。「陸上」を「勉強」に、「大会」を「受験」に、「4年間」を「3年間」に、体裁は異なりますが、「目標管理シート」を「スコラ手帳」に置き換えて読んでみてください。そして「神野大地」という選手名をみなさんの名前に換えて、5年後、10年後に、進学先や社会で活躍している自分のイメージに向かってください。
陸上というのはエンジンや羽根をつけたりせず、身につけるのはパンツとシャツだけで、体ひとつで走る競技であるから、第一に規則正しい生活を送らなければならない。それがベースになって初めて、練習を重ねて技術を高めていくという活動が生きてくるのである。規則正しい生活が送れるようになったら、目的を伝えてトレーニングに打ち込む。これは当たり前のことだ。その際にただ「20キロ走れ」命じるのではなしに、なぜ今の時期に20キロ走るのかという理由をきちんと理解することが大切なのである。
ただ闇雲に体力だけを鍛えることや、運動能力を高めることが指導のすべてだと思っている人が大多数だと思う。試合で結果の出なかったときには練習量が足りなかったとか、心根が悪いからとか、燃えていなかったからとか、よく言われたものだ。しかし、結果を見て調子の良し悪しを判断するのではなく、ピーキング(大切な大会へ向けてコンディションを最高の状態にもっていくように、調整すること)をトレーニングとして日頃から採り入れ、訓練する必要があると思う。
そのひとつ目が「目標管理シート」の導入である。これはA4用紙一枚に一年間の目標と一ヶ月ごとの目標、その下に試合や合宿ごとの具体的な目標を書き込んだものだ。大切なのは、自分自身で考えて目標を決め、自分の言葉で書き込むこと。これが選手の自主性につながるのだ。
また、「もう少し速く走る」といった抽象的な目標はダメで、必ず具体的な目標を書かせている。どんな小さな試合でも目標を設定させ、到達度を確認させる。部員たちは作成した「目標管理シート」を私に提出する。私はそれに目を通し、コメントを添えて返す。目標を設定して、それを実現するためにどうすればよいか考え、実行していくというスタイルは、私が営業マン時代に常にやっていたことだ。
力がなかなか伸びない選手は、実現不可能な目標を掲げるなど目標設定の仕方がうまくない傾向が見られる。たとえば、5千メートルでタイムを1分縮めるなどというのは目標ではなくて、妄想でしかない。そういう目標を書いてくる部員にはこう説明する。
「おまえな、これで、オレが一ヶ月で20キロダイエットすると宣言しとるようなもんだぞ」
一歩ではなく「半歩先」というのが私の口癖だが、壮大な目標を掲げるのではなく、手が届くところにある目標を着実に達成していくことが大事なのだ。その半歩先が積み重なったとき、4年間でものすごい成長につながっていく。
『愛と知性』
宮本百合子『愛と知性』(新日本出版社 1989)を半分ほど読む。
1940年くらいから亡くなる1951年の間に、「婦人画報」や「婦人朝日」「アカハタ」など婦人書かれた女性問題を中心とした評論がおさ
1946年2月に行われた講演会の中で、宮本さんは次のように熱く語っている。
皆さんどんな人でも一生のうちに手紙を書かない人はないでしょう。十五、六歳に誰しも日記を書き始めたくなって書きます。一生続ける人もあるし、途中で止めてしまう人もあるけれど。況してこの戦争では夫を或は子供を戦場に送った人々は皆手紙を書いています。あれは一つの文学的な歩みからいうと日本人というものがものを書くということについての大きな訓練だったと見ることができます。人間の心の話としての文学の端緒はそこにある。だから文学は師匠が要らない。ところが音楽になると、声を出すこと、譜を読むこと、指を大変早くピアノの上を滑らす技術、そういうものがたくさん分量を占めていて、どうしても先生がなくてはならないから、金持に独占されます。
『薔薇の殺人』
内田康夫『薔薇の殺人』(角川文庫 1994)を読む。
脅迫状に貼られていた新聞紙の活字をヒントに、名探偵浅見光彦が十数年前の人間関係の確執に端を発する殺人事件を解決していく。
1991年に刊行された本で、まだネットが普及していない頃の時流を感じる設定であった。
『読書力』
齋藤孝『読書力』(岩波新書 2002)を十数年ぶりに読み返す。
本は読んだら捨てることにしているのだが、この本だけはいつか読み返すこともあるだろうと、珍しく取っておいたものである。
齋藤氏は、とりあえず多少の緊張感を強いる文庫100冊新書50冊を読んだ経験を一定のラインとし、筆者の主張の根拠や例証となる事柄を的確に把握し、要約できる力を「読書力」と定義づけている。例えば資料10冊ほど渡されて1,2時間で的確に処理するといった社会で実際に求められる実務能力も、こうした読書体験がベースになっていく。
また、読書は味わうもの以上に習慣とすべきものであるという齋藤氏の考えが印象に残った。
後で使いやすい部分を引用しておきたい。
「溜めをつくる」という言葉がある。力を出すときに、膝を曲げて動きの準備を整えることだ。盛り上がるために、一度低く沈むこともある。心にも「溜め」という技がある。自分とは違う考えのものでも、一応は聞いておくことができるのは、たとえば「溜め」だ。自分の言いたいことをすぐに言ってしまうのではなく、自分の心の中で吟味し、言葉を選ぶのも「溜め」だ。
子どもの読書と大人の読書の間には溝があると先ほど述べた。子どもの読書とは、一度読んでわかってしまうものだ。わからなさに耐える必要がない読書では、読書力は向上していかない。運動のトレーニングで言えば、すでにできる力量の6、7割をいくらやっても筋力はつかないのと同じだ。わからなさが、筋力トレーニングで言えば、負荷である。「わからないところがあるからつまらない」と言って放り投げるのではなく、わからなさをいわば溜めておく構えが重要なのである。
わからない文章が出てきても、そこで放り投げずに耐えて、次の文章へ行く。次の文章で意味がわかることもあるだろうし、そこでわからないこともある。一段落全部あるいは数頁にわたってわからない状態が続くことさえあるかもしれない。しかし、それでもわかっていく予感を探るのが大切だ。何かヒントとなってわかるようになることがある。
満足できない。ただ難解なだけの内容空疎な文章なのか、わからないながらも内容が高度に詰まっている、「満足できるわからなさ」という種類の文章なのか。これを見極めることが読書力向上にとっての鍵になる。
ただの悪文をありがたがって読んでいてもそれは体に悪いトレーニングだ。しかし、負荷がある(難しい文章)といっても投げ出すのでは、力はつかない。難しいからという理由だけで、ハイレベルな本を毛嫌いする傾向は強まってきている。ひどい場合には、「やさしく書けないのは、著者が本当にわかっていないからだ」といった聞いた風な論を悪用して、自分の読解力や知識レベルを上げる努力を怠る者も多い。難しさやわからなさに耐えてそれを克服していった経験は、本当に読書力のある人ならば、誰もが持っているのではないだろうか。
わからなさを溜めておく。
この「溜める」技自体が、読書で培われるもっとも重要な力なのかもしれない。