月別アーカイブ: 2015年8月

春日部夕涼みフェスタ in 公園橋

2015-08-22 18.35.19 2015-08-22 18.58.05

夕方、上と真ん中の子を連れて、「春日部夕涼みフェスタ in 公園橋」に出かけた。
出かけた時間が遅かったので、カヤック体験や灯籠流しの受付などは終わっていたが、かき氷や焼とん串などで祭り気分を味わった。
わざわざ遠くまで出かけなくても市内で十分に非日常体験を堪能することができるのだ。

『氷雪の殺人』

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内田康夫『氷雪の殺人』(文芸春秋社 1999)を読む。
1998年10月から1999年7月にかけて「週刊文春」に連載された作品である。
防衛庁(防衛省)の組織ぐるみによる何百億にのぼる水増し請求とそれに絡む殺人事件が題材となっている。
一度予算が付いたら後戻りできない官僚組織の体質や、防衛庁内の背広組や他の省庁が口を挟みにくい専門的な防衛予算のあり方、通信傍受法の危険性など、登場人物をして作者内田氏の見解がストレートに表されている。殺人事件というよりも社会派小説のような雰囲気を感じる作品である。
最後に、殺人事件を指示した犯人である防衛庁の制服組の官僚が次のように述べる。集団的自衛権による安全保障が取りざたされている現在、印象に残る言葉であった。

わしはいくつもの後悔を重ねてきたさ。しかし、六十年近い生涯の中で、積み重ねてきた後悔の最大のものは、沈黙を守ったことへの後悔だな。自衛官というやつはね、きみ、政治や国の方針に容喙することが許されない人種なんだよ。巷ではわけの分からないような若造が、勝手気儘に政治批判をやっていても、自衛官は公けの場で国政批判、とくに国防に関する主張を開陳することはできない。自衛官に意思表示が許されるのは、選挙のときに一票を投じるぐらいなものだ。その禁を破って国防論を披瀝した結果、葬り去られた先輩を何人も知っている。国や防衛庁はシビリアンコントロールの名のもとに、異端の存在は問答無用に排除するのだ。たとえいかなる愛国者であろうとも容赦はない。そのつど、自衛官は萎縮し、貝のように口を閉ざした。防衛大以来の約四十年間、わしも沈黙しつづけた。いまとなっては、その無為に過ごした歳月が惜しい

『鯨の哭く海』

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内田康夫『鯨の哭く海』(祥伝社 2001)を数ページ残してほぼ読み終えた。
捕鯨で有名な港町の和歌山県太地町と、海無し県の埼玉にある山に囲まれた秩父市の2つの町で起きた連続殺人事件を、名探偵浅見光彦がばっさりと解決する推理小説である。3年前だったか、太地町を目指して那智勝浦の漁港まで車で行ったことがあり、親近感を持って読み始めた。
殺人事件の動機や背景など一本のドラマになりそうなくらいに細かく設定されていた。しかし、却ってそれらを紐解いていく浅見光彦の推理や偶然の出会いがあまりに一本調子でできすぎており、残念がら最後まで興味が続かなかった。内田康夫作品では初めての経験である。
捕鯨問題についての知識を得ることはできたが、あまりに趣向を凝らしすぎて墓穴を掘ってしまった感は否めない。

「紙一重で生き残った」

本日の東京新聞朝刊の埼玉版に、熊谷陸軍飛行学校(現航空自衛隊熊谷基地)で特攻隊に配属され生き残った方のインタビュー記事が掲載されていた。
記事の中で、沖末氏の「戦争の元凶は膨張主義だ」という言葉が印象に残った。領土や領海、戦力、戦果など数字化されるものを伸ばしていくという膨張主義は、現在の日本でも未だに跋扈している危険思想であるといっても良い。相手よりも、昨年よりも「スペック」を吊り上げていくという考え方そのものを疑っていける「教養」を身に付けていきたい。

以下、東京新聞ホームページより転載


戦後70年 語り継ぐ(中)旧熊谷陸軍飛行学校 紙一重で生き残った

熊谷市西部にある航空自衛隊熊谷基地のほぼ中央に、「荒鷲之(あらわしの)碑」と刻まれた大きな石碑が立つ。かつてこの地にあった熊谷陸軍飛行学校(熊飛校)で学び、戦死した少年飛行兵や特攻隊員らの慰霊と顕彰のため、一九七五年に建てられた。
「私は紙一重のタイミングで生き残った。運がよかった。その後七十年も生きてこられたのは不思議に感じる。同期の半分は戦時中に死にましたから」
熊飛校を四四年に卒業し、第六航空軍の特攻隊「第三〇三振武(しんぶ)隊」に配属された土田昭二さん(88)=三重県四日市市=がしみじみと語った。
「敵艦隊が沖縄を北上中。十五日午後八時に突入せよ」-。四五年八月十四日。福岡県の大刀洗(たちあらい)飛行場で待機していた土田さんらに出撃命令が出た。翌日に一式双発高等練習機(キ54)に五百キロ爆弾を積み、準備をしていたところ、正午の玉音放送で終戦を知った。
熊飛校の開校から終戦までの十年間、同校で訓練を受けた少年飛行兵や幹部候補生らは一万人をゆうに超える。このうち特攻などで亡くなった人は三千人を超えるとされる。
多くの少年飛行兵が未熟な操縦技術のまま実戦に駆り出された。「訓練中や移動中の事故死も多かった」。そう振り返る土田さんも当時は十代だった。たくさんの仲間がフィリピンや沖縄で命を落とした。
土田さんはこれまで数回、荒鷲の碑を見に熊谷を訪れた。「自分が犠牲になることで一億の国民は幸せになれる。あの時みながそう信じていた。もっと早く終戦になっていれば、あんなに多くの犠牲を出さずに済んだはずだ」

■  ■

沖松信夫さん(90)=熊谷市=は四五年四月、静岡県内に置かれた浜松教導飛行師団から熊谷に転属してきた。新たな所属は、熊飛校の廃校に伴って発足した第五二航空師団だった。
同師団には特攻隊が新たに四隊編成されることが決まり、浜松で重爆撃機の操縦訓練を受けた沖松さんが「第二六二振武隊」を率いることになった。
同隊は十二人構成で、百式重爆撃機が四機配備された。出撃時に八百キロ爆弾を積んで海面すれすれの飛行を想定し、低空で編隊飛行したり、滑走路から約二キロ南の観音山(標高八三メートル)を目標に最高速度で突っ込んだりする訓練を繰り返した。
八月十日ごろ、「十五日午後三時、熊谷を離陸し、熊本の飛行場へ向かえ」との指令が出た。「ついにそのときが来たか。うまく敵艦に命中してやろう」。沖松さんは覚悟を決めたが、十四日昼に出撃延期を伝えられた。理由は知らされなかった。翌十五日、宿泊先の民家で玉音放送を聞いた。「助かった」と涙を流した後、やり場のない怒りもこみ上げてきたという。
終戦後、「なぜ日本が戦争の道を歩んだのか」との疑問が芽生えた。東大法学部に進み、卒業後は熊谷市内の定時制高校で四十五年間、社会科の教員として教壇に立った。生活が苦しい生徒たちに教えることに生きがいを感じてきた。
「特攻隊で命永らえて、人生観、世界観が変わった。戦争の元凶は皇民化教育と膨張主義だ。過去を美化しようとする保守勢力が広がりつつあり、この国がまた同じ道を歩むのではないかと心配だ」
(花井勝規)

<熊谷陸軍飛行学校> 陸軍が航空機操縦者を大量養成するため1935年12月、旧大里郡三尻村(現熊谷市)に開設した。戦況悪化を背景に45年2月、第52航空師団に吸収される形で同校は廃止され、航空機に爆弾を搭載して敵艦に体当たりする特別攻撃隊(特攻隊)の訓練基地となった。戦後は米軍キャンプ地として接収され、58年の返還後は跡地の一部を航空自衛隊熊谷基地が使用している。

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旧熊谷陸軍飛行学校で学び戦死した特攻隊員らを慰霊する「荒鷲之碑」の前に立つ沖松信夫さん=熊谷市の航空自衛隊熊谷基地で

玉音放送 原盤公開

遅ればせながら、今月1日の東京新聞で紹介された、「大東亜戦争終結に関する詔書」、いわゆる玉音放送の原盤を聞いてみた。
ちょうど70年前の1945年8月14日に録音されたものであるが、かなり鮮明に聞くことができた。
文面は大変よく出来たものであり、朕自ら平和を希求するがゆえに戦争を終えるのだと読むこともできるし、「東邦ノ解放」に向けた戦争を継続したいが「戦局必ズシモ好転セズ」「新ニ残虐ナル爆弾」により仕方なく戦争を終えるのだと読むこともできる。読む側の受け取り方次第であろう。我田引水な解釈は避けたい。
どちらにせよ事は急いており、今後は過去を振り返ることなく、一層の信義を得るための祖国再建を目指せという趣旨である。戦争を思い出すという点に絞るならば、毎年聞いてもいいものであろう。


2015年8月1日付け 東京新聞より

昭和天皇は1945年8月15日正午から、ラジオで国民に敗戦を告げました。宮内庁は1日付で、放送に使われたレコードの原盤の写真と、原盤を再生してデジタル録音した音声を公開しました。また、昭和天皇は1946年5月24日、深刻な食糧不足を助け合って乗り切ろうと国民にラジオで呼び掛けました。この音声も玉音原盤と一緒に保管されていた原盤を宮内庁が再生、デジタル録音して公開しました。