日別アーカイブ: 2015年8月26日

『われら青春の途上にて』

李恢成『われら青春の途上にて』(講談社文庫 1973)を読む。
1969年に発表された表題作のほか、1970年に発表された「死者の遺したもの」「証人のいない光景」の2作が収められている。
「われら〜」は、作者の自らの経歴に根ざしたものであり、1955年(昭和30年)に上京し、昼は働き夜は代々木学院に通って大学を目指す朝鮮籍の若者の生活を描く。日本人にも、封建的な朝鮮人の家族にも、東京の生活にも馴染めず、高校を卒業したものの大学にも行っておらず、朝鮮戦争が終わったにも関わらず日帝侵略時代から続く在日差別を味わいながらも、将来を目指す主人公の若者の姿が印象的であった。
主人公の南洙は心の中で次のように述べる。

南洙は自分がなぜ生きているのだろうと考えるときがあった。勉強するためだと自答してみる。では何のために勉強するのだ。きっと朝鮮人になるためだと自答している。それが自分のペンダント(大事なもの)なのだった。それではどのような朝鮮人になるのかと重ねて訊ねてみる。そこで南洙は行き詰った。ただよみくもに、父のようなあの古い家の朝鮮人にはなりたくないと疼くように思うのだ。

「死者〜」は南北統一を希求した父の葬儀を巡るゴタゴタが描かれる。父の葬儀を共同葬儀にしようという提案に対して、朝鮮総聯に所属している弟の私と、民団に所属している兄の確執が表面化する。同じ兄弟でも政治的に分断されてしまっている悲哀が丁寧に綴られている。

『樹氷』

五木寛之『樹氷』(文藝春秋 1970)を読む。
現在も刊行されている「スキージャーナル」(1968.10〜1970.4)に連載された小説である。
全共闘運動に代表される反体制の気風が吹き荒れた時代の最中の作品であり、体制・反体制や資本主義の是非がテーマとなっている。
登場する4人の男は元々全員がアマチュアのスキー愛好家であったが、否応無しに政治や経済、マスコミ、商業スポーツなどの資本主義の体制側に組み込まれていく。徹底して国土開発に突き進んでいく時代の中で、一人は突き進み、一人は立ち止まり、一人は逡巡し、一人は脱落していく群像劇となっている。
また、最後の大勝負に出た藤沢の命運を握る秋山の滑降のシーンが秀逸であった。将来を託した4人の男の緊張感が「すっげー」伝わってきた。
五木氏の時代を感じるとる鋭敏な感覚が覿面に表れた作品だと思う。
高校時代に読んだのかどうか記憶にないが、もし読んでいたとしたら、当時の自分のものの考え方に少なからず影響を与えた作品だったのではないか。

印象に残った主人公のセリフを書き留めておきたい。デモのために渋滞に巻き込まれたタクシーの車窓から、デモの列をじっと眺めているテレビ局員北沢のセリフである。時代がかったものであるが、今現在の私たちに突きつけられている疑問でもある。

「ただ、おれが考えてることはこうなんだ。スポーツ自体は、それ自身として楽しいし、素晴らしい。それは本当だ。だからといって、それだけに熱中していられる連中が、その素晴らしさと遠い所にいるデモの列を他人のように見ることができるものかどうか。ひょっとすると彼らがスポーツ自体の興奮にゆだねて青春をそれにかけることが出来ること自体、反戦や反体制の目的でデモっている彼らの行為に守られているのじゃないか。平和あってのスポーツだからな。それが、なぜかスポーツマンは、体制側と密着してノンポリのグループに属してしまう傾向がある。ノンポリならいい。むしろ保守の側に身をおこうとする気配があるのは、なぜだろう。」