月別アーカイブ: 2014年12月

『弁理士になるには』

班目俊一郎『弁理士になるには』(ぺりかん社 1993)を卒読した。
市民生活には馴染みの薄い弁理士の仕事や資格について分かりやすく説明されている。

一口に、弁理士とは、国家試験に合格した資格者で、依頼者に代わって工業所有権(特許・実用新案・意匠・商標)の獲得、保全を業務とする人々である。サービスマークやデザインなどの登録商標は分かりやすいが、大半は電子・電気、機械、化学といった高度に専門化された工業系の特許出願を担当している。1本のボールペンにもいくつもの工業所有権が絡み合っている。ただアイデアを発明し、それを製品化すればよいという発想だけでは、生き馬の目を抜く現代では通用しない。全ての過程において権利として確立させることが求められるのだ。
一つ製品を開発すれば、その製品に該当する全ての特許や意匠を調査し、また他社の製品が売り出されれば、自社の持つ独自技術が使用されていないか確認する作業が必要なのである。
現代社会の釈然としない内容であったが、形のないアイデアそのものが権利化されて売り買いされるという「形而上学的な逆説」(岩井克人)を感じた。

『日本史が人物12人でわかる本』

爆笑問題『日本史が人物12人でわかる本』(幻冬社 2004)を読む。
日本史の勉強が捗らずに安易な方法をとろうと、タイトルに惹かれて手に取ってみた。
ここしばらくの疲れのためか、内容が整理されていないためか、すんなりと内容が頭に入ってこなかった。
菅原道眞、源実朝、武田信玄、淀君、田沼意次、井伊直弼、高杉晋作、土方歳三、和宮、福沢諭吉、野口英世、山下奉文と、平安から昭和までの当時の時代を代表する人物が名前を連ねている。しかし、当時の時代状況を代表すると言っても、必ずしも成功者だけではない。藤原政治に疎まれた道眞や北条氏に操られていた実朝、幕府と朝廷の架け橋を期待された和宮など、歴史の転換点に翻弄された人物も多く取り上げられている。
歴史の教科書やドラマを見ていると、後の歴史を切り開いた偉人ばかりがクローズアップされるが、陰から歴史と歴史を繋いできた人物の活躍にも注目していきたい。
あとがきの中で、太田氏は次のように述べる。

 歴史を見ていると、人間は、”どんな時代と出会ったか”がとても大きいと思う。どんな人間が、どんな時代に生まれたかによって、世界は大きく変化していく。
 現代は、この本に登場した人物達の遺伝子を確実に受け継いでいる。これらの人々の人生が形づくったのが、この我々の住む世界だ。そう考えれば歴史とは決して過去のものではない。

『秋山秀一の世界旅』

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秋山秀一『秋山秀一の世界旅』(八千代出版 1999)を読む。
地理学者で、現在東京成徳大学観光文化学科長を務める著者の旅コラムである。
世界70カ国を旅した著者が、世界の都市の文化や風景、オススメスポットに加え、旅の準備や心構えを語る。
ブログ的な軽妙な内容で話の重複も多かったが、帝国書院の地図を片手に世界良好気分を味わうことができた。

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東京成徳大学のホームページより

「フィジカルの逆襲」

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Podcastで配信されえている、文化系トークラジオLife「フィジカルの逆襲」(TBSラジオ 2014年10月26日放送)を聞いた。
インターネットが普及して20年近く経ったが、メインパーソナリティのcharlieは、これまでの「デジタル、バーチャル、多極化」の一辺倒な流れから、「アナログ、リアル、一極化」の動きが出ていると指摘する。
これまで避けられつつあった、会社仲間でのスポーツやゲームセンター、ライブなどが注目を集めているという。交通費や用品代を使い、身体を使って他人と共に汗を流すといった面倒臭いイベントに、SNSを使いこなす若者が興じる現象を社会学的に分析している。
「参加、賞賛、達成感」といった、学校教育の現場においても役立ちそうな話もあった。
時間があれば、もう一度聞きなおしてみたい。

『国語教室』

大修館書店から教員向けに刊行されている『国語教室』の第100号(2014年11月25日発行)をパラパラと読んだ。
100号記念の「私はこう考える これからの国語教育のために」と題した特集が興味深かった。思想家の東浩紀氏、姜尚中聖学院大学学長、詩人の小池昌代さん、精神科医の斉藤環氏、劇作家の竹内一郎氏、評論家の宇野常寛氏、元アスリートの為末大氏、女優の中江有里さん、俳人の長谷川櫂氏、社会学者の古市憲寿氏、計10人の方がコメントを寄せている。
それぞれの立ち位置から、東氏は「初等教育に論理的文章を書く機会を取り入れるべきだ」と延べ、姜尚中氏は「新たな外国語あるいは翻訳語の拡大・浸透に柔軟に対応する国語教育」の必要性を強調し、また、古市氏は「現代社会にそぐわない手書きを廃止せよ」と述べる。身体論や非言語情報、コピペ術など、国語教員の発想とはかけ離れた視点からの提案が面白かった。
長谷川氏は「言葉は通じない」と断言し、宇野氏は「お役所的建前や世間的体裁から自由であり得る領域が、世界には、文化空間には存在し得ることを制度的に教え得る数少ない機会が国語の時間だ」と言う。
どうしても「文学教育」「古典教養」という呪縛から逃れられない国語教員にとって、「言語能力を育てる教科」という国語科の目標を改めて理解するよい「材料」であった。