野村克也『ノムダス 勝者の資格』(1995 ニッポン放送)を読む。
1994年から95年にかけてニッポン放送の番組で話した内容に加筆された本である。
印象に残った一節を引用してみたい。
(ドラフト会議で子どもの入団が決まった親が監督に挨拶をしないことに触れて)
そうではなく、倅が所属し、世話になっている組織の長ひと声かけ、「どうぞよろしく」というのは、ごく自然な親の情だと思うのだ。
いつからこんなにダメになってしまったのだろう。ひょっとすると、ドラフトというものを自分寄りに解釈して、「大事な息子を入団させてやるのだから、そっちから挨拶にくるべき」ぐらいに考えているのだろうか。
なぜ、こんな一見関係なさそうなことを書くのかというと、実は関係が大ありだからである。
いうまでもなく挨拶は人間らしく生きる基本の心である。親に挨拶の心がないと、それは必らず子どもにも現われる。少年野球でもそれが如実に現われている。
挨拶できない若者は、気配り、目配りに欠け、他人の痛みがわからない。僚友にもちょっとした気遣いを怠ったためにチームが負ける。そうしたことが勝負の世界では日常茶飯事にあるのだ。
だから私は、Aという選手は「おぅ…す」と省略形で挨拶する。Bは「おはようございます」といい、Cは「……」とゴニョゴニョするだけ、という具合に、その人間の挨拶力をきちっと見ている。
『呉子』に「礼」「義」「恥」を説いた部分がある。兵隊を教育する場合、戦術の前に、「礼」「義」「恥」を教えよ。これを理解すれば、自分から進んで戦術を身につけていくものだ。
また、プレーそのものではなく、プレーをする姿勢を見る。
例えば、Dという選手は「捕れない球は追わない」タイプ。対してEは「捕れないかもしれないが追ってみる」タイプ。D選手はとても合理的に見える。しかし、この手のタイプは「目でしかモノを見ない」という冷めた性格をつくってしまう。このタイプ、目標や願望はまず達成できない。一見非合理的と映るけれどもEのほうが目標を達成しやすいし、チームの中で信頼を得ていく。
(中略)監督はこのように、プレーと、プレー以外のすべてを見て判断すべき責務を負っている。トンボのような複眼が必要なのである。