日別アーカイブ: 2013年11月15日

『エースの品格』

野村克也『エースの品格:一流と二流の違いとは』(小学館文庫 2010)を読む。
「指導者論」レポート作成のために読む。気になったところを引用してみたい。

私が標榜する野球は「プロセス野球」である。結果よりも過程に重きをおく、という意味だ。結果を軽んじているわけではない。逆に、結果がほしければほしいほど、そこにいたるまでの内容を一義的に考えなくてはならない、と言いたいのだ。
「人間的成長なくして技術的進歩はない」
私がよく持ち出すこのフレーズもまた、プロセス野球の一環である。天性の才能だけを頼りにしてプレーしていると、いつか必ず行き詰まる。そのとき、「感じる力」「考える力」を養っていなければ、その闇の中から必ず抜け出す術は見つからない。
すなわち、個々の過程を大事にし、小事細事に気がつく人間のほうが、終わってみればチームに勝利をもたらし、自分の好成績を残していく。やがては「チームの鑑」となって組織に好影響を与え、他の選手の目標となって新たな「鑑」を再生産していくのである。技術的な成果は、人間性を磨くことで初めて手に入るのだ。
プロセスをかたちづくる中心には、「思考」がある。それは、人間という生き物にしか備わっていない崇高な能力である。
思考が行動を生み、習慣となり、やがて人格を形成し、運命をもたらし、そして人生をつくりあげていく。
ようするに、思考即ち考え方は人として生きていくうえでの起点となる概念であり、教育し、経験を積ませることでその重要性に気づかせることが「育成」の基本である。

また、「指導者論」からは外れるが、次のようにも述べる。

キレのいいボールを投げるためには、どうすればよいのか。
近頃では、「腕を振れ」というアドバイスが蔓延しているようだが、これはいったいどうしたことか。多くの投手が「今日はよく腕が振れました」などと試合後に語っていたりもする。なぜ腕に意識がいくのか、私にはとうてい理解できない。
コントロール=キレは、体のバランスが生命線である。ならば、上下半身、左右半身のバランスをとるために、まずはその中心である「腰」を意識するべきではないか。
人間誰しも、下半身に比べて上半身を優先的に使いこなしているはずだ。無意識に体を使えば強い部分が勝り、弱い部分がなんとかそれについていこうとするのは当然だ。腕などは放っておいても器用に反応できる部位であり、意識させる必要などない。腕を中心とした投げ方をすれば、腕は振れる。腰が安定していれば、いいピッチングができるのである。そういう観点から見ると、五十余年のプロ野球人生のなかで、稲尾こそ私がこの目で見た最もバランスのとれたピッチャーだった。その下半身をつくりあげるために、どれほどの努力、鍛錬があったかは想像を絶する。一説によれば、少年時代に小舟の上で櫓を漕ぎながら、バランス感覚が自然と養われたとも伝えられている。いずれにせよ、球史に残る偉業は「腰の安定」がもたらしたのである。

「道徳の『正解』とは」

本日の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」は秀逸だった。昨日の「ブロレタリア文学と現代」と同じ人の筆であろうか。文体が良く似ている。

石原千秋が『国語教科書の発想』などで繰り返し批判してきたのは、教科書が作品の多様な読みを展開するためでなく、道徳的な面から見たただ一つの正解に向けて用いられているという教育の現状だった。「こころ」も「舞姫」も、みな「国語」よりも「道徳」を教えるための材料として使われている、というのだ。
批判は、そのことが教師の側でも自覚なく行われていることにも向けられているのだが、たしかにそうだとしても、優れた文学作品に道徳を考えさせる力が内在していることもまたたしかなことだ。そうした作品を扱うときに道徳の問題に触れない方が難しい。だから、問題は「ただ一つの正解」というところにある。
その点、「道徳」が教科化されて、「一つの正解」を教え込まれることの方がよほど恐ろしいのではないだろうか。優れた文学作品には必ず多様な立場、異なる考えを持つ人々が登場する。彼らの繊細な内面を丁寧に推察する、という訓練抜きに、ただ「あるべき道徳」を教え込み、そこで成績をつけるとしたら…。道徳教科化の推進派は、そういう教育によって取り返しのつかない失敗を引き起こした歴史を忘れてしまったのだろうか。「道徳」よりも「歴史」を学び直すのが先だ。(自国民)