月別アーカイブ: 2013年11月

『トゥルーライズ』

True_Lies-James_ Cameron-トゥルーライズ-1

地上波で放映された、アーノルド・シュワルツェネッガー・ジェイミー・リー・カーティス主演、ジェームズ・キャメロン監督『トゥルーライズ(True Lies)』(1994 米)を観た。
本来144分の映画なのだが、1時間近くカットされているので正しい判断はできないが、大作なのだが、B級映画というドタバタアクションを楽しむことができなかった。「YAHOO映画」でやたら評価が高いのが不思議である。

『ノムダス 勝者の資格』

野村克也『ノムダス 勝者の資格』(1995 ニッポン放送)を読む。
1994年から95年にかけてニッポン放送の番組で話した内容に加筆された本である。
印象に残った一節を引用してみたい。

(ドラフト会議で子どもの入団が決まった親が監督に挨拶をしないことに触れて)
そうではなく、倅が所属し、世話になっている組織の長ひと声かけ、「どうぞよろしく」というのは、ごく自然な親の情だと思うのだ。
いつからこんなにダメになってしまったのだろう。ひょっとすると、ドラフトというものを自分寄りに解釈して、「大事な息子を入団させてやるのだから、そっちから挨拶にくるべき」ぐらいに考えているのだろうか。
なぜ、こんな一見関係なさそうなことを書くのかというと、実は関係が大ありだからである。
いうまでもなく挨拶は人間らしく生きる基本の心である。親に挨拶の心がないと、それは必らず子どもにも現われる。少年野球でもそれが如実に現われている。
挨拶できない若者は、気配り、目配りに欠け、他人の痛みがわからない。僚友にもちょっとした気遣いを怠ったためにチームが負ける。そうしたことが勝負の世界では日常茶飯事にあるのだ。
だから私は、Aという選手は「おぅ…す」と省略形で挨拶する。Bは「おはようございます」といい、Cは「……」とゴニョゴニョするだけ、という具合に、その人間の挨拶力をきちっと見ている。
『呉子』に「礼」「義」「恥」を説いた部分がある。兵隊を教育する場合、戦術の前に、「礼」「義」「恥」を教えよ。これを理解すれば、自分から進んで戦術を身につけていくものだ。
また、プレーそのものではなく、プレーをする姿勢を見る。
例えば、Dという選手は「捕れない球は追わない」タイプ。対してEは「捕れないかもしれないが追ってみる」タイプ。D選手はとても合理的に見える。しかし、この手のタイプは「目でしかモノを見ない」という冷めた性格をつくってしまう。このタイプ、目標や願望はまず達成できない。一見非合理的と映るけれどもEのほうが目標を達成しやすいし、チームの中で信頼を得ていく。
(中略)監督はこのように、プレーと、プレー以外のすべてを見て判断すべき責務を負っている。トンボのような複眼が必要なのである。

大学案内研究:日本映画大学

日本映画大学のパンフレット(2014年度版)を読む。

カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルム・ドール賞を受賞した『楢山節考』(1983)『うなぎ』(1997)や、フランス映画高等技術委員会賞を受賞した『黒い雨』(1989)の監督で知られる今村昌平監督が、1975年に2年制の横浜放送映画専門学院を開校したことに始まる。1986年現在地の川崎市新百合ヶ丘駅前に校舎を移転し、2011年に4年制大学として出発している。
専門学校時代を含めると、芸能人のうっちゃんなんちゃんや出川哲朗、バカリズム、『悪の教典』を監督した三池崇史、『踊る』シリーズの本広克行、『許されざる者』の李相日など錚々たる面々を輩出している。また、今村昌平氏の息子で映画監督の天願大介氏が学科長を務めている。
私も高校時代に映画の仕事に携わりたいと思い、高2の頃だったか、高校を休んで1人で文化祭に出かけた記憶がある。たしか当時はちょっと暗めの学生が、照明や編集などの展示を行っているだけで、あまり良い印象を持てなかった。それが幸いしたのか、災いだったのか、やはり大学で文学部に行って脚本を学ぼうと進路希望の変更につながる転機となった。

映画の究極のテーマは「人間を総合的に描く」ことにあるという創立者の考えから、「人間総合研究」を始め、政治思想や精神医学入門から能楽概論、絵巻特論、建築空間論、環境思想、民俗学、死生観などの幅広い教養科目が設けられている。元早大教授で文芸評論家の高橋世織氏が学部長に就任しているのはちょっとした驚きであった。
2年次前期までは全員が同じ科目を履修し、2年次後期から、脚本演出コース、撮影照明コース、録音コース、編集コース、ドキュメンタリーコース、理論コースの6つのコースに分かれ専門を深めていく。

倍率もホームページを見たら、2倍近くあり、人気を集めているようだ。もし高校生の私がこの大学のオープンキャンパスに参加していたら、人生は別のものになっていたであろう。

なお、日本では昨年1000本近い作品が劇場公開されており、映画祭などを含めると邦画だけで800本近く上映されているらしい。そして、毎年300本以上の映画を100年にわたって作り続けているのは、世界中でアメリカとインドと日本だけであるとのこと。映画大国日本の作品を今後とも味わっていきたい。

『未来形の読書術』

石原千秋『未来形の読書術』(ちくまプリマー新書 2007)を読む。
ちょうど石原氏の受験国語の新書を読み直す機会があり、参考のために手に取ってみた。
読書のあり方に始まり、小説の定義や読み方、小説とエッセーの本質的な違いなどが述べられる。大学の文学論の講義を聞いているようで、読むだけで賢くなったような気がしてきた。
著者は「本」について次のように述べる。

本には何かはよくわからないが、そして実際に読んでもわからないかもしれないのに、自分が知らなければならないこと、わかっておかなければならないことが書いてあると、あなたは思っているはずだ。本は自分を映す鏡だと考えれば、それはこうありたいと願っている未来形の自分ということになる。つまり、いまよりは成長した自分である。
そういうあなたが読む限り、本はいつも新しい。現実には、未来に書かれた本はない。本はいつも過去に書かれている。当たり前の話である。しかし、本の中に未来形の自分を捜したいと願う人がいる限り、本はいつも未来からやってくる。そのとき、本には未知の内容が書かれてあって、そこにはこうありたい自分が映し出されている。これは、理想の自己発見のための読書、未来形の読書と呼べそうだ。古典を新しいと感じることがあるのは、そのためなのだ。本はそれを読む人の鏡なのだから、その人が読みたいように変えるのである。

『14歳』

千原ジュニア『14歳』(講談社 2007)を読む。
お笑い芸人「千原兄弟」の弟千原ジュニア氏の自伝的小説である。前半は不登校、引きこもりで熟成されていく多感な中学2年生特有の怒りが鬱々と描かれる。後半はその怒りの矛先がお笑いというリングに向かっていき、引きこもりを脱して未来へと駆け上がっていく青春小説となっている。
読みやすい文体で一気に読んでしまった。