月別アーカイブ: 2009年3月

「時代を読む」

本日の東京新聞の朝刊に哲学者内山節氏の「時代を読む」と題したコラムが掲載されていた。
初めて目にしたと思ったのだが、よくよく調べてみると、奇数月の第四日曜日に連載していたとのこと。
私自身が、昨年の9月に教材研究の一環として内山氏の住む群馬県上野村を訪れ、農村の可能性というものを考えていたところだったので、じっくりと読んでみた。

内山氏は、農山村にこそ人間の原点があるという実生活に根ざした思想をベースにして、グローバル社会を批判している哲学者である。今回のコラムも高校生にも分かる易しい語り口で現代都市生活、引いては人間のあり方そのものに警鐘を発している。
写経のつもりで全文引用してみたい。

 私の一年の暮らしは、東京と群馬県の山村、上野村を往復するなかに展開している。こんな生活をするようになって、四十年近くが過ぎた。
北関東のこの山村では、いま、梅のつぼみがふくらんできたところだ。その根元では水仙が咲き、福寿草が黄色い花をつけている。庭を訪れる小鳥たちの声もずいぶん春らしくなってきた。もうすぐ、いろいろな山菜がでてくるだろう。私の狭い畑も耕作がはじまる。四月は村の春祭りの季節である。
今日の山村は厳しい。過疎化も高齢化もすすんでいるし、経済的基盤は年々弱体化してきている。ところが不思議なことに、村の暮らしの方が都市よりも無事な感覚をいだかせるのはなぜなのだろうか。
私はその理由は、「私」を包んでいるものの厚さにあると思っている。村では自然が「私」を包んでいる。村人が「私」を包んでくれている。村の文化や歴史も「私」を包む。ここにはいろいろなものに包まれている安心感があり、それが無事な時空を感じさせる。
現代社会が弱体化させたのは、この包まれた安心感である。かつて人々を包んでいた自然や地域、風土から人間は離脱し、都市に暮らす個人になっていった。それでも少し前までの都市の暮らしにはまだいくつかの「包むもの」が残っていた。人々は家族に包まれていると感じ、友人たちもお互いを包み合っていた。終身雇用制や年功序列型の賃金制度をもっていた企業も、働く人たちを包んでくれているような安心感を与えていた。
ところが今日では、それもまたハゲ落ちはじめている。家族に包まれていると感じなくなった人々もふえてきている。労働者を利益追求の道具のように扱う企業もふえ、いまでは労働者の三分の一以上が非正規雇用になってしまった。正規雇用であったとしても、定年までの安定が保障されていると感じる人がどれだけいるだろうか。
私たちは次第に「裸の個人」になってしまったのである。いろいろなものに包まれながら生きていた人間が、その包まれたものを失い、「裸の個人」になっていった。
それは個人の利益を絶対視する思想を生む。自分以外に頼るものがない以上、すべてのものは自分が利益を上げるための手段になってしまう。こうして野蛮な市場経済が展開し、その市場経済からさえ退席させられていく企業や個人が増加する時代がはじまった。誰もが、たとえそれなりのかたちであれ、無事に生きていく仕組みがなくなってしまったのである。
これで私たちの社会はもつのだろうか。私にはこの問いが、これから具体的なかたちで、私たちの前に現れてくる気がしてならない。多くの人たちが、さまざまな不安に怯える社会、というかたちで。
近代社会の思想は、人間を単なる個体としてとらえた。「裸の個人」を絶対視したのである。私はそれは根本的な誤りであったと思う。そうではなく、いろいろなものに包まれているとき、個人にも安心感があり、無事を感じさせる一生がありえたのではなかったか。自然が人間を包み、人間の営みが自然を包む関係が成立しているとき、自然も人間も無事でありえたように、人間同士もまた、お互いを包み合うように生きていかなければならなかったのではないだろうか。
今日の私たちに与えられている課題は、自然をふくめて、人間たちが無事に生きていく方法の発見である。

本日の東京新聞朝刊

本日の東京新聞朝刊に、埼玉県の民間人校長公募制度で合格した、教育測定研究所執行委員の曽根一男さんと、元ゲイトウェイ・コンピュータ社長の松村和則さんの紹介記事が掲載されていた。

お二人とも現在の学校教育に物足りなさを感じており、「学力向上」、「コミュニケーションが密接な学校・地域作り」という高い目標を胸にして、4月から1年間教頭として赴任するとのこと。そして、来年4月に正式に校長として手腕を発揮する予定だそうだ。
ここ数年県立でも私学でも、校長が替わってトップダウンで校内の雰囲気が変わっていく学校が散見されるようになった。新しい2人の方には、1年間の教頭経験で潰れることなく、そして一つの学校に留まらず、埼玉県の教育全般に新しい風を吹き込んでもらいたいと思う。

ワールドベースボールクラシックス

WBC2009

この数日、テレビやラジオではWBC(ワールドベースボールクラシックス)の話題で持ちきりである。サッカーのワールドカップに比べれば断然規模の小さい大会なのだが、テレビを観る限りでは、オリンピック級の盛り上がりようである。
一応トーナメント制を敷いているのだが、参加国が少ないため同じ国と何度も対戦するという複雑な敗者復活制度が、マスコミの味付けで盛り上げに一役買っているようである。

試合の中身はさておいて、昨日も同じようなことを書いたが、私と同じ35歳の選手が活躍をしているというのは嬉しいものである。チームリーダーでもあるイチロー選手や小笠原道大選手といったベテランが、お情けでなく、若い20代の選手との競争に勝ち抜いてファンから賞賛を浴びている姿を見るにつけ、私自身が応援されているような錯覚すら覚えてしまう。

35歳……。まだ人生70年の半ばを過ぎたところであるが、瞬発力を問うようなスポーツの世界では引退と背中合わせの時期である。彼らのプレーを応援することで、自分自身もパワーをもらいたいと「切に」思う。

『0(ゼロ)からの風』

zerokara_movie

職場の交通安全講演会で、塩屋俊企画・監督、田中好子主演映画『0(ゼロ)からの風』(2006 『0(ゼロ)からの風』制作上映委員会)を観賞した。

早稲田大学に入学したばかりの息子を、突然の交通事故で亡くした母親の物語である。当初は息子を失った悲しみや加害者への恨みでいっぱいであったが、やがて交通行政そのものの欠陥に気付き、交通被害者の立場に立った法改正運動の先頭にまで立ち、その後息子の意志を受け継ぎ早稲田大学への入学を果たす。そのパワー溢れる母親の微妙な気持ちの揺れを、田中好子さんが見事に演じている。生徒の方も、学校行事の映画観賞だったので初めはざわついていたが、話が進むにつれて演技の迫力に圧されていったようである。

また、無免許・無保険で飲酒運転事故を起こした無職の加害者役を、私と歳が同じで、生年月日までぴったり同じである袴田吉彦さんが演じていたのが印象的であった。被害者の側に寄り添った内容なのだが、加害者への同情を禁じ得なかった。

『「名前」の漢字学』

阿辻哲次『「名前」の漢字学』(青春出版社 2005)を読む。

「人名用漢字」という戸籍登録に使える漢字のあり方を巡って、「法制審議会人名用漢字部会」での法務省の役人や最高裁との丁々発止のやりとりや、著者の感想や解説が分かりやすく述べられている。

そもそも「人名用漢字」とは、法務省の管轄であり、役所や学校で混乱をしないように名前に使える漢字に制限を加えることを目的として制定されたものである。「当用漢字」が制定された直後は92字しかなかったのだが、国民の要望や議員からの要請で徐々にその範疇を広げ、現在では常用漢字の異体字も含め九百数十字を数えるまでに至っている。

「人名用漢字」も「縦割り行政」の弊害を被っており、文科省と文化庁が管轄する「常用漢字」、経済産業省が管轄するコンピュータの共通漢字である「情報交換用漢字符号系」(JIS漢字)との間ですりあわせが行われてこなかった。そのため「昴」と「昂」の誤用や、「凜」と「凛」の字体の違いなどが生じ、「尿」や「病」といった字が使える一方で、「矜恃」といった良い意味の言葉が使えないなど、今後も世論の動向を鑑みながら改正が続きそうである。

阿辻氏は漢字の大家であり、もっと高齢の方かと思っていたが、