「時代を読む」

本日の東京新聞の朝刊に哲学者内山節氏の「時代を読む」と題したコラムが掲載されていた。
初めて目にしたと思ったのだが、よくよく調べてみると、奇数月の第四日曜日に連載していたとのこと。
私自身が、昨年の9月に教材研究の一環として内山氏の住む群馬県上野村を訪れ、農村の可能性というものを考えていたところだったので、じっくりと読んでみた。

内山氏は、農山村にこそ人間の原点があるという実生活に根ざした思想をベースにして、グローバル社会を批判している哲学者である。今回のコラムも高校生にも分かる易しい語り口で現代都市生活、引いては人間のあり方そのものに警鐘を発している。
写経のつもりで全文引用してみたい。

 私の一年の暮らしは、東京と群馬県の山村、上野村を往復するなかに展開している。こんな生活をするようになって、四十年近くが過ぎた。
北関東のこの山村では、いま、梅のつぼみがふくらんできたところだ。その根元では水仙が咲き、福寿草が黄色い花をつけている。庭を訪れる小鳥たちの声もずいぶん春らしくなってきた。もうすぐ、いろいろな山菜がでてくるだろう。私の狭い畑も耕作がはじまる。四月は村の春祭りの季節である。
今日の山村は厳しい。過疎化も高齢化もすすんでいるし、経済的基盤は年々弱体化してきている。ところが不思議なことに、村の暮らしの方が都市よりも無事な感覚をいだかせるのはなぜなのだろうか。
私はその理由は、「私」を包んでいるものの厚さにあると思っている。村では自然が「私」を包んでいる。村人が「私」を包んでくれている。村の文化や歴史も「私」を包む。ここにはいろいろなものに包まれている安心感があり、それが無事な時空を感じさせる。
現代社会が弱体化させたのは、この包まれた安心感である。かつて人々を包んでいた自然や地域、風土から人間は離脱し、都市に暮らす個人になっていった。それでも少し前までの都市の暮らしにはまだいくつかの「包むもの」が残っていた。人々は家族に包まれていると感じ、友人たちもお互いを包み合っていた。終身雇用制や年功序列型の賃金制度をもっていた企業も、働く人たちを包んでくれているような安心感を与えていた。
ところが今日では、それもまたハゲ落ちはじめている。家族に包まれていると感じなくなった人々もふえてきている。労働者を利益追求の道具のように扱う企業もふえ、いまでは労働者の三分の一以上が非正規雇用になってしまった。正規雇用であったとしても、定年までの安定が保障されていると感じる人がどれだけいるだろうか。
私たちは次第に「裸の個人」になってしまったのである。いろいろなものに包まれながら生きていた人間が、その包まれたものを失い、「裸の個人」になっていった。
それは個人の利益を絶対視する思想を生む。自分以外に頼るものがない以上、すべてのものは自分が利益を上げるための手段になってしまう。こうして野蛮な市場経済が展開し、その市場経済からさえ退席させられていく企業や個人が増加する時代がはじまった。誰もが、たとえそれなりのかたちであれ、無事に生きていく仕組みがなくなってしまったのである。
これで私たちの社会はもつのだろうか。私にはこの問いが、これから具体的なかたちで、私たちの前に現れてくる気がしてならない。多くの人たちが、さまざまな不安に怯える社会、というかたちで。
近代社会の思想は、人間を単なる個体としてとらえた。「裸の個人」を絶対視したのである。私はそれは根本的な誤りであったと思う。そうではなく、いろいろなものに包まれているとき、個人にも安心感があり、無事を感じさせる一生がありえたのではなかったか。自然が人間を包み、人間の営みが自然を包む関係が成立しているとき、自然も人間も無事でありえたように、人間同士もまた、お互いを包み合うように生きていかなければならなかったのではないだろうか。
今日の私たちに与えられている課題は、自然をふくめて、人間たちが無事に生きていく方法の発見である。

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