水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野:デフレ世代の憂鬱と希望』(光文社新書 2008)を読む。
先週の土曜日(3月28日)の東京新聞夕刊に、「文字スクイ」という一見不思議な詩が掲載されていた。大人の使う言葉の貧困を嘆きながらも、子供の頃の縁日の楽しい思い出を描き出す興味深い内容の詩である。性別すらよく分からないなペンネームにも惹かれて著書を手に取ってみた次第である。
著者は1970年に神奈川県相模原市に生まれ、新興住宅地に育った団塊ジュニア世代の著者曰く「普通」の女性である。
団塊ジュニア世代は、子供時分は高度経済成長期の「我慢し努力すれば幸福の未来がやってくる」という教育を受け、熾烈な受験競争を強いられたにもかかわらず、大学を卒業する頃にはバブルが弾け、阪神大震災とオウム真理教事件で戦後の価値観そのものががらがらと目の前で崩壊していくのを体験した世代であると著者は述べる。著者は自らの体験と重ね合わせて、団塊ジュニア世代は戦後民主主義の「最終バス」に乗り遅れ、これから先も高齢社会の煮え湯を飲まされ続けるた「デフレ世代」であると言う。
私自身が横浜の外れの新興住宅地育ちの団塊ジュニアであり、著者の意見に頷くことが多かった。
これから注目していきたい評論家である。
今日ではそれ(常にコミュニケーションに対して高い緊張感を要請され続ける)に拍車がかかり、若者の間では携帯電話のメールを数分以内に返信しなければ「友達ゲーム」からの退場となってしまうという。まるで昆虫の通信網のような高速ネットワークである。私たちの一〇代も、「ケータイ」こそはなかったが、すでに心情的には似たような雰囲気が席巻していた。
こうしたコミュニケーション・スキルは、言葉についての高度の感受性と同時に、沈思黙考し思索することの放棄という、一見すると矛盾する二つの要素を同時に兼ね備えてはじめて可能となる行為といえる。
だが、思考せずに返信を繰り返すという行為、いや、もっと言えば相手の「テンション」に瞬時にあわせる「だけ」のコミュニケーション・スキルを駆使し続けることは、言葉と思考と感性との間に築かれた、自分なりのバランス感覚の保持を困難にする。この不協和音は、言語化できない(言語化以前の)「痛み」へと収斂されていくのではあるまいか。