村上慎一『なぜ国語を学ぶのか』(岩波ジュニア新書 2001)を読む。
とある高校の国語の先生が、授業を受け持っている生徒と、小説や詩、古典、小論文を学ぶ本質的な意味を問答形式で問い詰めていく。生徒自身が自分で調べたり考えたりした疑問を先生にぶつけ、先生と共に疑問を掘り下げていくという形をとっている。
執筆当時、著者は進学校で全国に名の知れた愛知県立岡崎高校に勤務しており、登場する生徒も岡崎高校の生徒をモデルにしたのか、教員の行間を読んで理解する模範的生徒ばかりである。実際の高校生が読んでもあまり面白くはないであろう。
大学生か教員が改めて「国語」について考えるための本となっている。
著者扮する国語の先生は現代文と古典を学ぶ意義について次のように述べている。
「現代文は何のために学ぶのか」の答えをわたし自身は、「人間を理解し、自分を理解するため」、あるいは、「それを言語でできるようにするため」、と考えている。それが「人間としてよりよく生きるため」ということにつながるから、この科目は大切なんだと思っている。
わたしたちはよく「これはわたしの考えです」なんて口にするが、厳密に言えば「わたしの考え」というのは自分たちがそう思っているほど多くはないのではないかと思うことがある。自然に対する考えだけじゃない。宗教的なものに対する考え方、基本的な人間関係のもち方、時間の流れに対しての感じ方、死に対する考え、人生をどうとらえるか……。例をあげたらきりがない、そうしたいろいろなことに対する自分の考え方、感じ方、とらえ方に、歴史や祖先が潜んでいるということはないだろうか。自分が属する文化に影響されずに生きているひとなんて、いないと思う。その自分に影響を与えている文化は、一朝一夕にできあがらない。長い時間がかかって生まれてきた文化を知るにはどうしたらいいか。そこに古典の意味がある。古典には文化の履歴書のような側面があるからだ。
古典の勉強は、過去のことを学ぶという側面だけでなく、現在の自分の考え方や感じ方がどこからやってきたかをたしかめるという側面もある。君たちの目は、現在から未来の方へ向いているのだろうかと思うが、現在を知り未来を考える道しるべは「過去」なんじゃないかな。