月別アーカイブ: 2008年8月

『NHKは何を伝えてきたか NHK平和アーカイブス:番組公開ライブラリーリスト』

職場でもらった日本放送協会編『NHKは何を伝えてきたか NHK平和アーカイブス:番組公開ライブラリーリスト』というパンフレットをじっくりと読んでみた。
NHKが戦後60年の長期に亘って、その時代の視点に合わせて広島・長崎の問題をくり返しくり返し伝えてきた経緯が書かれている。50年代は直接に原水爆の被害を伝え、さらなる実験を防ぐ運動の広報の先導を担う番組を数多く報道している。それが60年代に入ると、東西冷戦の中で広島の被爆体験のもつ意味の問い直しが始まる。そして、70年代以降に入ると、核拡散を防ぐ新たな視点として、市民レベルの草の根被爆体験の掘り起こしが増えてくる。さらに80年代では、被爆体験の継承がドラマやラジオ番組の主題となっていく。
戦後におけるNHKの戦争に対する真摯な態度が伝わる良質な内容であることが分かる。しかし、大本営発表の先兵であったNHKの戦前の責任については一行のコメントも掲載されていない。

□ 「NHK 平和アーカイブス」公式サイト □

『スカイ・クロラ』

Sky_Crawlers_movie

久しぶりに子どもを風呂に入れて映画に出掛けた。時間の都合で、押井守監督『スカイ・クロラ』(2008 日本)を観た。
近未来の戦争を舞台とし、「キルドレ」と呼ばれる少年パイロットたちが主人公である。14歳で戦闘ロボットを操るエヴァンゲリオンに似たような設定だが、この『スカイ〜』はエヴァ的な自分探しを純文学的な作風で色づける。
この物語における戦争とは国と国の総力戦ではなく、平和を維持するための代理戦争という位置づけで、戦争そのものを民間企業に委託している。そして、国民はアメフトやサッカーのワールドカップを観るよう雰囲気で戦争を応援する。この国民の娯楽である戦争で活躍し、そして命を無くすパイロットはさながら将棋の駒のような存在である。
本作では国の(大人の)平和を維持するために、永遠に終わることのない戦争の意味を問おうとする若者を描き出す。CGの究極的な映像美とあいまって印象に残る作品であった。

□ 押井守監督最新作 映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』公式サイト □

[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=FDcpm1GVAiA[/youtube]

『世界中の言語を楽しく学ぶ』

井上孝夫『世界中の言語を楽しく学ぶ』(新潮新書 2004)を読む。
直接外国語と接点のない校閲の仕事をするサラリーマンである著者が、通勤の途中などをのこま切れの時間を利用して数十の外国語を学ぶコツを伝える。自分が築き上げてきた勉強法や生活習慣を読者に丁寧に伝えようとする自費出版的な作品である。
私たちは「外国語=英語」という前提でものを考えてしまいがちである。しかし、改めて世界にはこれほどの言語が存在したのかと、著者の手のつけた外国語の数に驚かされる。ゲール語やアムハラ語、きわめてマイナーなフェロー語、そして絶滅したタスマン語やダルマチア語など著者の関心は古今東西に及ぶ。
その中で、著者は英語の媒介語としての有用性を評価しつつも、次のようにも述べる。私自身が一昨日までオーストラリアにおり、オーストラリア人の英語に対する寛容な態度(発音や文法が多少違っていても理解しようとする姿勢)に関心していたので特に興味を引いた。

 現在の事実上の国際語となりつつある英語。日々悩まされている読者諸氏は、「なんでこんなややこしいものを覚えなくちゃならないんだ?」と嘆きたくもなるでしょう。英語の、スペルと発音の乖離はひどい。こんなに離れているのはデンマーク語やゲール語以上です。国際語としては全く非効率的である。しかし私たちは英語を学ばなくてはならない。これは現実です。では今のような悩みを非英語話者は永遠に味わうのでしょうか。
そうでもないだろう、と私は思います。恐らくは徐々に英語のエスペラント化が進むのではないか。不規則形、不規則なスペルを無くし、覚えやすく使い易いものにする。Englishは英米の方言を指し、国際共通語としてInterlish(Internalional Englishを略した造語)とでも呼ぶ日が来るかもしれない。
自国語を国際語に供した結末には、興味があります。

「アキハバラ後」

2週間弱留守にしていた頃の新聞を読み返している。
8月1日付の東京新聞夕刊の匿名コラム「大波小波」に「アキハバラ後」と題した次のような文章が載っていた。少々過激な文章であるが、1971〜74年に生まれた団塊ジュニア世代の境遇を鋭く突いている。

『未来あるフリーター未来のないフリーター』(NHK出版、2001年)で村上龍は、「フリーターのことを心配しているわけではなくて、彼らの復讐がうざったい」(当時は製造業への派遣労働はなかった)と言っていた。その後「労働力需給の迅速、円滑かつ的確な結合を図る」ため、労働者派遣法が改定され(2004年)、就職氷河期の谷間に落ちた若者たちが工場でハケンとして働く現象が起きた。
これは規制緩和というイデオロギーに基づく政治的決定の結果であり、経済的な自然現象の如きものではない。「経済がそうなんだからしょうがない」とつい思いがちだが、あらゆる経済現象はあくまで政治的選択の結果だ。だから今日の労働者が置かれた事態には、これまでの為政者の責任がある。
希望のなさを殺人と結びつけたのは無論本人の責任だが、将来結婚して家庭をつくることもできない、一生工場と寮を往復するだけなんだ、とまで思い詰めさせたからには、何らかの形でテロルが続くことは避けられないだろう。だってこの社会は、彼らに「人生」を送らせないのだから、社会を破壊するという形でしか、彼らは生のエネルギーを放出できない。それにしても、刺す相手を間違っていると思うが。(朝日平吾)

『野火』

帰りの飛行機の中で、大岡昇平『野火』(新潮文庫 1994)を読む。
戦争末期の日本軍が劣勢に立たされたフィリピン山中をさ迷う敗残兵の田村一等兵が、フィリピン女性を撃ち殺したり、人肉を食べたりするといった記述を通して、戦争の狂気を描く。

愚劣な作戦の犠牲となって、一方的な米軍の烽火の前を、虫けらのように逃げ惑う同胞の姿が、私にはこの上なく滑稽に映った。彼らは殺される瞬間にも、誰かが自分の殺人者であるかを知らないのである。