昨日、家族を連れて寒い風の吹きすさぶ中、近所の蕎麦屋へ出掛けた。古利根川の川沿いのぽつんとした個人経営のこぢんまりとした店なので、つつましい雰囲気の店なのかと思って暖簾をくぐった。しかし、豈図らんや、蕎麦もうどんも素材からこだわった手打ちの本格派で、デザートのケーキまで手作りの暖かさがあり美味しかった。値段も相応だが、ゆったりとくつろげるので良い。
月別アーカイブ: 2007年12月
『水滸伝(上)』
施耐庵著・松枝茂夫訳『水滸伝(上)』(岩波少年文庫 1959)を読む。
現在定期考査の採点に追われているのだが、やるべき仕事が目の前にある時ほど、本棚の奥に眠る本を読みたくなってくるという習性は学生時分から変わらない。少年向けの抄訳であり、細かい人物描写が省かれているためか、登場人物の姿形を頭の中でイメージしにくく、話にいまいち乗っていけない。後半はもっと面白くなっていくのだろうか。
『マイ・ロスト・シティ』
フィッツジェラルド短編集(村上春樹訳)『マイ・ロスト・シティ』(中公文庫 1984)を読む。
長年本棚に眠っていた本で、ページの三分の一ほどが茶色く焼けてしまい古本屋の匂いがする文庫本であった。一般にフィッツジェラルドというとロストジェネレーション世代の作家と称され、第一次大戦後のアメリカの白けた気だるい雰囲気を描出するつまらない作風の作家というイメージであった。高校時代に手に取った際は、冒頭の数ページ読んだだけで読むのを諦めてしまっていた。
しかし、30代になって読むと、不倫やアルコール中毒、世界大恐慌による倒産など、将来が見えない不安や過去にしがみついてしまう弱さなどがすーっと心の中で理解出来て面白かった。
『大学教授になる方法:実践篇』
鷲田小彌太『大学教授になる方法:実践篇』(青弓社 1991)を読む。
はるか昔にぱらぱらと読んだような記憶がかすかにある本である。80年代後半から90年初頭の団塊ジュニア世代が大挙して大学に押し寄せた「大学バブル」時代に書かれたもので、知的好奇心とちょっとしたコミュニケーション能力と論文らしきものを書く能力さえあれば、運と我慢で大学教授になれると懇切に説く。近年の少子化と初等中等教育における学力低下を念頭に置いていないかのような見解でありがた迷惑な実践論である。この本を読んで大学教授を目指した現30〜40代の多くの非常勤講師は悲惨な人生を歩んだことであろう。
鷲田氏は研究の基本は読書にあり、読書論を展開しているのであるが、彼の読書の姿勢は、私と大変似通っており興味深かった。
私も読んだ本は右から左へと忘れていく。そして一度読んだ本の大半はすぐにごみ箱行きである。ただ、もう一度本の内容を思い出す必要に迫られたときのために、本の情報と、あらすじや主題、印象に残った部分を、時間軸で整理している。
時間軸で整理するというのは、野口由紀雄氏の『超・整理法』から得たアイデアである。
数少ないこの雑記帳の訪問者にとってまことに読みにくいこの断片的な文章と、時折挟まれる個人的感想や暮らしぶりは、私脳内の記憶の整理のためなのである。
(本を読んだあと、どうする?)読んだものはほとんど忘れてしまう。諦念からだけでなく、忘れるべきだ、とも考えている。私は、詩とか聖書とかを丸暗記して、詠ずる人を見ると、ただ驚嘆するしかない。次から次に読んで、忘れてゆくからである。ただ忘れた後に残ったわずかのもの、これは大切にしている。誰がいったかこれも忘れたが、どんなに厚い本でも、情報量は別として、本当に述べたいことは、三行くらいでテーゼ化できる、と信じている。ノートやメモは、再利用のためのものだが、人間精神はどこまでも貪慾だから、常にすぎるのである。再利用不能なほどに多くメモるのである。それで、忘れようとしてもなお極少に残存している本のエキス(と思うもの)を着火口となるような形で留めておけば、必要とあらばいつでも思考を発動できる、と信じ込んでいるわけである。
『大衆食堂の人々』
呉智英『大衆食堂の人々』(史輝出版 1989)を読む。
80年代前半の『スコラ』や『宝島』などの雑誌に連載されたコラムのアンソロジーである。知識がない大衆を小馬鹿にし、そうした大衆層を育んだ戦後民主主義に疑義を呈し、さらに戦後民主主義に依拠する国家体制や既成政党、教育を否定する。小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』を読んでいるような感じで、何の生産性もない話が続く。ただ、後半の漢字を簡易化する国語教育への批判には同調できた。
論語講座 以費塾第14期(最終講義)講師:呉智英