林芙美子『新版 放浪記』(新潮文庫 1979)の「第一部」を読む。
「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」の有名な書き出しで始まる著者の私小説風日記である。
独占資本主義とデモクラシーと欧米庶民文化と貧富の格差が一気にやってきた1920年代において、カフェの女中や女工などをして糊口をしのぎながらも、東京の雑踏の中でたくましく生きていく一人の女性の姿を描き出す。芙美子さんは、明日をも知れぬ最底辺の生活を強いられながらも貧乏を恥じることなく、寸暇を惜しんで本を読み、わずかながらも詩を書き、遠く離れ離れの家族の安寧を願う。社会的体面にかかずらうことなく自分の生き方を貫く女性のバイタリティを感じた。男ならこのように強くは生きられないだろう。
一般に『放浪記」というとプロレタリア文学の範疇に属すると考えられているが、一人の労働者の生活を描くと言う点ではまさに「プロレタリア」文学ではあるが、共産党文学とは別物であり、女性文学の一つと捉えるべきなのであろう。
『新版 放浪記』
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