月別アーカイブ: 2006年12月

『僕たちの軍隊』

本日の東京新聞朝刊に、防衛庁の「省」昇格について、帝京大教授の志方俊之氏と軍事ジャーナリスト前田哲男氏のコメントが載っていた。
志方氏が国際情勢に合わせて改憲せずとも自衛隊の活動範囲を拡げよと述べるのに対し、前田氏は憲法9条(専守防衛)の枠を越える自衛隊法の改悪は認められないと訴える。前田氏も指摘する通り、問題の根底は防衛庁か防衛省かという看板の掛け替えではなく、自衛隊に国際協調という美名の下で海外出勤のお墨付きを与えることなのである。

そこで、前田哲男『僕たちの軍隊:武装した日本を考える』(岩波新書 1988)をざっと読んでみた。
「僕たちの軍隊」とあるが、その実態は米軍の指揮下に入った自衛隊であり、自衛隊に軍事技術を売り込む三菱や日産といった企業である。1980年代後半の本であるが、「ソ連」脅威論を振りかざすことでレーガノミクスに追随し軍拡に走っていた当時に対する著者の警鐘に目が留まった。

ここで日本の急速な軍事化をうながすもう一つの原動力、つまり日米安保協力を「エンジン」とすれば「ガソリン」にもたとえられる「ソ連の脅威」について検証しておこう。それなしにいくら防衛庁が笛を吹いても軍拡マーチが鳴りひびくことはなく、逆にいえば、最近における軍拡マーチの高鳴りは「ソ連脅威」キャンペーンが国民の間にひろがった結果だと考えられるからである。軍事大国になるのはいやだが、ソ連の軍事力はもっとこわい—これがごくふつうの日本人の考え方ではなかろうか。「ソ連脅威」キャンペーンは、こうした「素朴な不安」につけこんだ形で展開されてきた。だがそれは正しいデータと情報にもとづいたものだろうか。国民をコントロールするための、誘導キャンペーンではないのか? 誇張された「脅威」がひとり歩きして「善良な市民の不安」を増幅させているのではないか?
(中略)問題は、あたかもそれ(ソ連の軍事力)が日本の国土に対する直接の侵略の脅威であるかのように描き、安保協力の推進と自衛隊増強によって対抗できると思い込ませる政府・防衛庁のやり方である。

上記の文章を読んで勘の良い人なら気付くであろうが、「ソ連」を「北朝鮮」に置き換えてみると、そっくりそのまま現在の防衛「省」昇格の議論につながっていくのである。前田氏は自衛隊の前身警察予備隊が創設された時も、「共産主義の洗脳を受けた赤軍師団が、北海道のすぐ先の樺太に集結している」との大嘘キャンペーンが展開されたことをも指摘している。タカ派の人間にとって、今回の防衛省昇格は「金正日」様々であろう。また、そうした「金正日」像を意図的に作り上げてきたマスコミの仕掛人にも足を向けて寝られないであろう。

『教師よ! 教育基本法の精神にかえれ:教育の荒廃を正し、教育の反動化を阻止するために』

家の本棚に眠っていた、大海恵二郎『教師よ! 教育基本法の精神にかえれ:教育の荒廃を正し、教育の反動化を阻止するために』(1981)という自費出版?本を手に取ってぱらぱらと読んでみた。
その中で、著者大海氏は次のように述べる。

教育とは本来、教師と生徒の信頼関係の上に成立し、それは教師の生徒に対する「情熱」と「愛情」によって実を結ぶものである。その観点から考えて、教師は今一度自分が行なっている教育が教育の原点である(憲法)といわれる教育基本法の精神に則ったものかどうかを冷静に見つめ直すべきである。また、教育の反動化の波に対してもそれと真向から対立すべき勢力(日教組、民主団体等)が国民多数の支持と理解を得ることができないため有効な対応ができず、常に守勢に立たされている。私は日教組がかかげている「平和を守り真実をつらぬく民主教育の確立」を教師が誠実に実践してきていたならば、今日のような状態は生れなかったと思っている。(中略)私は制度的問題等を論ずる前にまず教師自身が反省の上にたった教育を実践すべきであるということを訴えたい。私の主張はこの点につきると思う。

日教組は教師の中にも反民主的(教育基本法の精神を理解しない)な教師がいることを素直に認め、このような教師の存在が生徒・父母の「信頼と尊敬」を損わしめ、「民主教育の確立」に対する重大な弊害になっていることを認識してほしい。また「民主教育の確立」に障害となる反民主的な教師に対しては、国民とともに告発するぐらいの気がまえがなければならないと思う。

大海氏は自分の枠組みだけで生徒を判断し、工夫も苦労もせず、問題が起きたら家庭や進学先に責任を転嫁する「反民主的教師」を職場から排除していく、引いては個々の教員が自己の教育を反省し、心の中に巣くう「反民主教育」の芽を摘むことこそが教育再生の第一歩だと説く。まさに正論である。知識を教えることに終始し、生徒を類型化、点数化して合理的に「処理」していくような教育こそが批判されなければならないのである。
はて、自分はどうなのか。まず隗より始めよということか。

教育基本法

本日の東京新聞朝刊に教育基本法をめぐるタウンミーティングに関するコラムが掲載されていた。その中で次のような記者の私感が載っていた。

教育基本法「改正」でも、政府がやり玉に挙げるのが日教組だ。でも、その委員長はテレビ討論で「改正」推進派にほとんど腰砕けだった。組織率も三割ほどに低下したこの組織に昔日の力などない。だから、日教組が教育荒廃の元凶だというのは言いがかり。事なかれに徹する教師の姿こそ元凶ではないのか。(牧)

なかなか正鵠を射た意見である。「わが国の郷土を愛する心」や「国際協調」の語句が入る「改正」だろうが、「改悪」だろうが、本当に教育基本法にこだわった教育を展開しようとする者にとってはそんなことは瑣末なことである。記者の指摘するように、本当の害悪は教育基本法の理念のかけらもなく、生徒との関わりから逃げサボることだけを考えている怠慢教師である。

『老化とは何か』

 今掘和友『老化とは何か』(岩波新書 1993)を読む。
 タウタンパク質だの、グルココルチコイドなど専門用語がさっぱりだったので、本編は半分ほど読み飛ばし、最後のエピローグだけじっくりと目を通すことになった。その中で次の一節に目が留まった。

 考えてみると、老人の福祉や治療というのは、高齢化社会のもたらす問題に対する対処療法であるに過ぎません。医療には対処療法と根本的治療があります。頭痛がする患者さんに鎮静剤を与えるのは対処療法です。頭痛の原因が例えば脳血腫であるとするなら、鎮痛剤で一時的に治まったとしても、必ず再発します。これに対し、頭痛の原因が脳血腫であることを見極め、これを除去するのが根本的治療です。高齢化社会の問題は加齢に伴い、多少の機能低下は仕方ないにしろ、大きな機能低下が起こる点にあります。これを防止することがこの問題の根本的治療であるはずです。そのためには、「老化の生物学」が大きな役割を果たすのだと思っています。

 著者は、老化の実態を、「高齢社会」や「医療・年金」、「介護・福祉」といった社会的な切り口ではなく、ずばり生理学的な側面からこれを問題視し解明を試みる。確かに私たちは高齢に伴う様々な機能的障害や社会的不利を自明のものとして考えがちである。しかし、機能低下そのものの改善が前提になければならないという著者の見解は、私自身が狭い視野に捕われていたことを知らしめてくれた。

『Z』

梁石日(ヤン・ソギル)『Z』(毎日新聞社 1996)を読む。
一人の在日韓国人の作家を主人公が、日韓政治の狭間に未だに生息する旧日本軍や日本の右翼と通ずる韓国の闇政治に踏み入っていく。話はフィクションではあるが、金大中以降一切否定されてきた、韓国の軍事政権を下支えしてきた反民主勢力の実態が浮き彫りになっている。

途中、時代が大きく遡り、日本の朝鮮半島支配が1945年8月15日で突然終わり、旧ソ連が平壌を実質的に支配する情勢の中で米国の息のかかった李承晩政権が誕生するまでの悲劇が挿入される。どこまでが事実なのかは判然としないが、朝鮮戦争に至るまでの韓国国内の残虐非道な人権蹂躙行為はきちんと振り返らなければならない。