月別アーカイブ: 2004年7月

『「学校が変わる」のウソ ホント:』

岡崎勝『「学校が変わる」のウソ ホント:「新学習指導要領」って何だ?』(風媒社 2001)を読む。
名古屋市の一小学校教員の立場から、現行学習指導要領に基づいた教育改革について私見を加えている。大人と変わらない論理で動いている生徒同士の関係が渦巻く教室の中に、文科省は「子どもの論理」を押しつけようとしている矛盾を著者は指摘している。「差別のない社会」「元気な子ども」と自治体や教育委員会はスローガンを作成するが、「差別のなくならない社会」「悩み、傷つきやすい子ども」にしっかり向き合うことから社会観、教育観は形成されねばならない。

学級が崩壊したらどうするか? 親としては子どもの話を聞くしかありません。それも自分の子どもだけでなく、複数の子どもと親が集まりきちんと現実を認識することからはじめたらいいでしょう。どうも、親も子も、みんな格好つけたがり、自分は無関係だと思いたいのでしょうか。数人の子どもの悪口をいいながら、自分の子どもは関係ないという話が続きます。しかし、学級の中で子どもたちが根本のところで孤立してしまっているから崩壊できるのです。一見すると仲がよさそうに崩壊ごっこをしている子どもたちも、その関係はあいまいで不安定で、いつ自分がいじめられたり排除されるかという不安に恐れているのが普通ではないでしょうか? そんな子どもの心情を理解するということはとても大切です。ボクは何もやさしい言葉をかけてあげようとか、やさしく見守ろうとか、理解すればいいんだ、ということだけをいっているのではありません。逆に、急に子どもの立場に立ってみようとか、子どものストレスを理解しようとするような、子ども主義の態度はかえって良くないのだと思ってすらいます。なぜなら、学級はユートピアではありません。どろどろの人間の関係性から逃れられません。

高校生向けの夏休み人権関係推薦図書

高校生向けの夏休み人権関係推薦図書

書名 著者名 出版社 発行年月
だから、あなたも生きぬいて 大平 光代 講談社文庫 2003.05
生きるこだま 岡部 伊都子 岩波現代文庫 2000.09
GO 金城 一紀 講談社文庫 2003.03
哲学ってなんだ:自分と社会を知る 竹田 青嗣 岩波ジュニア新書 2002.11
いじめを考える なだいなだ 岩波ジュニア新書 1996.06
あなたは私の手になれますか: 小山内 美智子 中央法規出版 1997.03
ハンドブック 子どもの権利条約 中野 光 岩波ジュニア新書 1996.05
ぼくたちの言葉を奪わないで!:ろう児の人権宣言 全国ろう児をもつ親の会 明石書店 2003.05
平和と平等をあきらめない 高橋 哲哉 晶文社 2004.05
国際協力と平和を考える50話 森 英樹 岩波ジュニア新書 2004.02
ことばと人権 人権学習ブックレット 中川 喜代子 明石書店 2002.11
ドメスティック・バイオレンス  新版 草柳 和之 岩波ブックレット 2004.07
自殺 柳美里 文春文庫 1999.12
“It(それ)”と呼ばれた子 デイヴ・ペルザー 青山出版社 1998.04
ひきこもれ:ひとりの時間をもつというこ 吉本隆明 大和書房 2002.11
学校では絶対教えてくれない「どうして勉強しなくちゃいけないの?」 藤田 徳人 PHP研究所 2004.05

『スクールカウンセラーの仕事』

伊藤美奈子『スクールカウンセラーの仕事』(岩波アクティブ新書 2002)を読む。
中学校の非常勤のスクールカウンセラーである著者の専門的でかつ素直な視点から子どもや学校を取り巻く状況を分析している。特に以下の「むかつく」から「キレる」という語の分析が興味深かった。

少し前の若者の間に流行った「むかつく」という表現、そして最近の中学・高校生たちの日常語となっている「キレる」という言葉に象徴されるように、子どもたちの苛立ちは頂点に達しつつあります。教師や親など、自分に正論を唱えるおとなに対して、子どもたちは「むかつく」という言葉で、わけのわからないイライラを吐き出しました。心の中にわだかまるストレスをうまく表現できない子どもたちにとって、この「むかつく」という一言は万能的な(あらゆる気持ちを含みこむような)意味を持っていたといえます。ところが、一時代が過ぎ、「むかつく」は「キレる」に取って代わられることになりました。無造作な形であれ「むかつき」を溜めることができていた子どもの心の貯水池が、ついに干上がってしまったのでしょうか。イライラやモヤモヤは心の中で反芻されることなく、原型のまま外に放り出されることになりました。放り出されたイライラはそのまま他者に向かいます。最近多発している子どもたちの問題の数々は、この原型のままの攻撃性が引き起こした事件であるといえるでしょう。

そして、孤独であることの不安を次のように述べる。携帯電話がこれだけ普及した現在、逆に中学生や高校生の抱える孤独に対する不安は私たちの世代以上に大きくなっているはずである。

自分自身を見つめ自分らしさを発見するには「孤独な時間」が必要です。孤独は寂しさや辛さを伴いますが、独りになることで本当の自分に直面し、ありのままの自分に戻るための契機を提供します。
しかし情報化社会といわれる今、独りになることはきわめて難しくなっています。自分の世界を作りたいと思っても、新しい情報が次々と流れ込み、自らの五感でじっくり味わいながら選びとっていくという体験が減りました。人の目にさらされながら、素の自分でいるというのは至難の業です。他方、独りでいると「嫌われ者」と思われるのではないかという不安が先走り、独りの世界に閉じこもることもできません。独りの世界を作るには、周りに影響されないだけの強い自我が求められます。しかし、その自我が育っていないため、そのもろい自我を守るための「鎧」が必要になるのです。適当に距離を保ちながら、互いの気持ちには踏み込まない……、そんな友人間の距離(心の隔たり)は「鎧」の役割を果たしているのかもしれません。
子どもたちの「疲れた」というつぶやきは、内面的な成長をもたらす「孤独」とその成長を支える「本当のつながり」が、子どもたちの世界から消えつつあることを示唆する危険信号であるとも考えられます。この子どもたちに、「ぶつかっても大丈夫」という基本的な信頼感を持たせるためには、人間同士の暖かいふれあいを積み重ねることが必要です。そして今、子どもと真のぶつかりあいができているのか、われわれおとな自身が真剣に問い直すべき時期に来ているのではないでしょうか。

『新中学校 まんが理科教室』

寺山一弥『新中学校 まんが理科教室:1分野』(清水書院 1993)を読む。
公式だけの参考書では理解できなかった重力落下運動やフレミングの左手の法則が理解できた。やはり運動やエネルギーの分野はただ、「S=v0t+vt/2」など公式を暗記してもなかなかイメージが喚起しにくく理解が追いつかなかったが、絵やグラフを併用することでうまく頭の中で整理する事ができた。電気抵抗の「抗」の字の「几」の部分が「Ω」と似ているということを意識しながら、オームの法則を復習すると理解が早かった(笑)。
いよいよ切羽詰まってきたが、あと手を付けていない残りは物理、化学、地学である。電気の基礎と、化学公式、天体の動きについて復習を加えていきたい。

『学校は必要か』

奥地圭子『学校は必要か:子どもの育つ場を求めて』(NHKブックス 1992)を読む。
フリースクール「東京シューレ」の開設・主宰者である作者がシューレの紹介をかねながら、不登校を巡る学歴信仰、学校絶対の固着化した社会の見方を断罪する。

学校へ来させないと教育できない、成長できない、教師の仕事は登校させることが第一歩である、という考え方は狭いと思う。教師の仕事は、子どもの成長への援助であって、場所を限定して行う仕事ではない。教育の中心は学校である、と教師・行政は思っている。私もかつて学校の教師であった時、放課後の活動に参加しないまま学習塾に行ってしまう子はよくないと思い、「塾と学校とどっちが大事?」と聞いていた。それは、教師の傲慢ではなかったか。塾のほうが子どもにとって行きたいところになっている場合があるのだ。そして登校拒否の子どもたちの立場に立った時、より学校中心主義が見えてきたのだった。

一般に教師には、はみ出す子がいると違和感をもつ感覚が出来上がっている。その子のありようを認めるのはどうもよくない、その子のためにならない、甘くなってはいけない、と思ってしまう。実は、自分の作られた学校的感覚にその子の状態が合わないので、自分がすっきりするために何かをしてしまうにもかかわらず、自分の感覚や理屈は絶対化してしまって問わないし、迷わない。
子どもが、その時、その場で、そのことが学べる、体験できるということを知っていても、(全体行事に)加わらないで別のことをやっているならば、そうする本人の必然性がまずは尊重される必要があろう。

一つは、学力とは何かについて、よく考えてみる必要を感じる。一般的に、学校での成績がよいと、“学力が高い”というが、点数を取る力とは、記憶し、それを吐き出す力であって、人が生きていく上で、真に学びながら、より豊かに生きるクリエイティブな力のことではない。“学校学力・受験学力”と“生活学力・生き学ぶ力”とは同じではない。私たちにとってより大切なのは、学校学力ではなく、生き学ぶ力ではないかと思う。
二つ目は、そう考える時、学力とは、授業や机に向かっての勉強だけで育つものではなく、広く日常生活の中で、あるいはさまざまな体験・経験の中で育つものが大きいと考えられる。東京シューレでは、子どもの造語で、「ヒロベン」「セマベン」という言葉があるが、いろいろタイムや自主活動、友人づきあいなど広い意味の勉強を「ヒロベン」と称し、教科授業や受験勉強を狭い意味の勉強、つまり「セマベン」と称している。なぜ大人は一般にセマベンのほうばかり、やっていないやっていないと気にするのだろうか。もっと、本来の学力のために、自然や暮らしの中の知恵や、人との出会いの中から学び取る力を大切にしていいのではないだろうか。学校の中で習ったことのうち、生活に役立っているものの少なさは誰でも感じていよう。本当の学力は、知識のつめこみではなく、自ら考え、発見し、探求し、現実に生かす力である。他律から解放され、自分の判断で動いている子どもたちの中にそれが育っている、と私は東京シューレの子たちをみて思っている。もちろん、テストをして点を比べれば低いだろう。漢字書き取りなども苦手である。しかし、うんざりするほど勉強を押しつけられていない彼らの知的関心やみずみずしい感性、自分らしくありたい心は、テストで測定できない未来への創造性を秘めていると思う。