脇浜義明『教育困難校の可能性:定時制高校の現場から』(岩波書店 1999)を読む。
中高一貫校のエリート学校と対極に位置づけられる定時制高校でボクシング部の顧問をしている定年間近の著者が、日常の生徒とのやり取りの中で感じた矛盾やら欺瞞やらを素直に著わしている。
「偽善のかたまりのような教師聖職論や、中産階級的な社会的地位を意識した教師専門職論、一方的に子どもを型にはめ込む「発達段階論」とか子どもを病人に仕立て上げる「カウンセリング」など疑似科学者気取りの教師専門家論」
昔、たしか七〇年代だったと思うが、ドル・ショックとか石油危機で、失業者が増えたときがあった。そのとき、自衛隊が定時制高校の生徒を強引に勧誘した事件があった。教員組合はそれを軍備増強の一例ととらえ、反戦署名運動を現場に下ろしてきた。しかし、当事者である私の生徒たちは、「仕事があれば誰も人殺し集団なんかに入隊しない」と言って、生活者の立場に立つ発想をしない教員組合の社会運動を批判した。私が言いたいのはこういう発想の違いである。学徒動員された大学生の叫び「きけ、わだつみの声」的な反戦でなく、軍隊では白米が食えると故郷の母に手紙を書いた「戦没農民兵士の手紙」に見られる反戦である。私たちの生は、実際には、単に現実という「動く箱」の一方的な犠牲者という静止的なものでなく、もっと屈折したもの、もっと複雑で、私たちの行為そのものが、犠牲者のそれであれ、加害者のそれであれ、「動く箱」という現実を織り上げていると思うからだ。
定時制高校はかつての貧困な家庭の子息ではなく、学力的に輪切りされたその底辺層の子どもが入学する学校になっている。実際に生活保護家庭の数は全日制の方が多いのである。そうした中で、著者は次のようにまとめる。
このように底辺層が変化したのである。この変化に、私も含めてかつての反差別活動家たちは、少なくとも現状認識ができる活動家は、当惑している、というのが実状だろう。これの克服は、明治以降の日本の資本主義化を支えてきた「能力主義」の打破、教育の中軸にでんと坐っている能力観をひっくり返すことからしか始まらないと思う。それには今文部省や県教委が進めているシステムの改革(隔離主義と自由競争化)だけではだめで、もっと日常的な場面から、現場の個々の先生たちの発想の転換が必要だ。