『学校は必要か』

奥地圭子『学校は必要か:子どもの育つ場を求めて』(NHKブックス 1992)を読む。
フリースクール「東京シューレ」の開設・主宰者である作者がシューレの紹介をかねながら、不登校を巡る学歴信仰、学校絶対の固着化した社会の見方を断罪する。

学校へ来させないと教育できない、成長できない、教師の仕事は登校させることが第一歩である、という考え方は狭いと思う。教師の仕事は、子どもの成長への援助であって、場所を限定して行う仕事ではない。教育の中心は学校である、と教師・行政は思っている。私もかつて学校の教師であった時、放課後の活動に参加しないまま学習塾に行ってしまう子はよくないと思い、「塾と学校とどっちが大事?」と聞いていた。それは、教師の傲慢ではなかったか。塾のほうが子どもにとって行きたいところになっている場合があるのだ。そして登校拒否の子どもたちの立場に立った時、より学校中心主義が見えてきたのだった。

一般に教師には、はみ出す子がいると違和感をもつ感覚が出来上がっている。その子のありようを認めるのはどうもよくない、その子のためにならない、甘くなってはいけない、と思ってしまう。実は、自分の作られた学校的感覚にその子の状態が合わないので、自分がすっきりするために何かをしてしまうにもかかわらず、自分の感覚や理屈は絶対化してしまって問わないし、迷わない。
子どもが、その時、その場で、そのことが学べる、体験できるということを知っていても、(全体行事に)加わらないで別のことをやっているならば、そうする本人の必然性がまずは尊重される必要があろう。

一つは、学力とは何かについて、よく考えてみる必要を感じる。一般的に、学校での成績がよいと、“学力が高い”というが、点数を取る力とは、記憶し、それを吐き出す力であって、人が生きていく上で、真に学びながら、より豊かに生きるクリエイティブな力のことではない。“学校学力・受験学力”と“生活学力・生き学ぶ力”とは同じではない。私たちにとってより大切なのは、学校学力ではなく、生き学ぶ力ではないかと思う。
二つ目は、そう考える時、学力とは、授業や机に向かっての勉強だけで育つものではなく、広く日常生活の中で、あるいはさまざまな体験・経験の中で育つものが大きいと考えられる。東京シューレでは、子どもの造語で、「ヒロベン」「セマベン」という言葉があるが、いろいろタイムや自主活動、友人づきあいなど広い意味の勉強を「ヒロベン」と称し、教科授業や受験勉強を狭い意味の勉強、つまり「セマベン」と称している。なぜ大人は一般にセマベンのほうばかり、やっていないやっていないと気にするのだろうか。もっと、本来の学力のために、自然や暮らしの中の知恵や、人との出会いの中から学び取る力を大切にしていいのではないだろうか。学校の中で習ったことのうち、生活に役立っているものの少なさは誰でも感じていよう。本当の学力は、知識のつめこみではなく、自ら考え、発見し、探求し、現実に生かす力である。他律から解放され、自分の判断で動いている子どもたちの中にそれが育っている、と私は東京シューレの子たちをみて思っている。もちろん、テストをして点を比べれば低いだろう。漢字書き取りなども苦手である。しかし、うんざりするほど勉強を押しつけられていない彼らの知的関心やみずみずしい感性、自分らしくありたい心は、テストで測定できない未来への創造性を秘めていると思う。

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